マイケル・マクドナルドの加入をきっかけに、AORと急接近していったドゥービー・ブラザーズ。その過渡期から絶頂期までを、ギタリスト目線で辿った特集はいかがだっただろうか? 特集ではその時期に活躍したギタリストとして、ジェフ・バクスター、パット・シモンズが話の中心だったが、創設メンバーでありバンドの顔でもあったトム・ジョンストンと、ジェフ・バクスターの後任として加入したジョン・マクフィーも忘れてはならないギタリストだ。今回は特集番外編として、その2人がドゥービー・ブラザーズというバンドにとってどういう存在だったのかを考えていきたい。
文=近藤正義
Photo by Clayton Call/Redferns/Getty Images
ドゥービー・ブラザーズにとっての
トム・ジョンストンという存在とは?
今回はジェフ・バクスターを軸として、マイケル・マクドナルドが加入してからのAOR期(1976年~1983年)に焦点を定めたため、ドゥービー・ブラザーズ本来の中心的ギタリストであったトム・ジョンストンにはほとんど触れてこなかった。ただ、この時期にまったく参加していないというわけではない。
彼は、言うまでもなくドゥービー・ブラザーズ結成以来の重要なボーカリスト/ギタリスト/コンポーザーであり、1971年のデビュー・アルバム『ドゥービー・ブラザーズ・ファースト』から1975年の5thアルバム『スタンピード』まで、まさしく彼こそがドゥービー・ブラザーズという存在だったわけである。
ドゥービー・ブラザーズの楽曲には3つのパターンがある。トム・ジョンストン色の強いもの、パット・シモンズ色の強いもの、その両方がミックスされた色合いのもの。その3つの中で、パット・シモンズ色が強いものを以外の楽曲では、常にトムの躍動感あふれるハードなギター・リフ、ブルージィかつロッキンなリードが鳴り響いていた。
1975年、『スタンピード』のアルバム・リリースに合わせたツアーの最中に、健康上の理由で離脱したトムであるが、すぐに脱退したわけではない。マイケル・マクドナルドが加入して初のアルバム『ドゥービー・ストリート』(1976年)では「ターン・イット・ルース」1曲だけではあるがオリジナル曲を提供。ギター・リフ、ボーカルともに従来のドゥービーズらしい豪快なサウンドだ。
この曲がアルバムの中で異質であるという評論が昔も今もよく書かれているが、果たしてそうだろうか? バンドの新しいAORサウンドとしっかり共存できており、この路線をバンドが続けて包有していれば面白い展開を期待できたかもしれない、と考えることもできる。
しかし、トムは次作『運命の掟』(1977年)にはメンバーとしてクレジットされてはいるが、楽曲の提供はなく、ギターにもボーカルにもトムの存在は正確に確認できない。そして次なるアルバム『ミニット・バイ・ミニット』(1978年)では、ついに正式メンバーとしてのクレジットはなく、ジャケット写真にも彼の姿はいなくなってしまった。唯一、ゲスト・プレイヤーとして「轍を見つめて」にボーカルでクレジットされているが、リード・ボーカルはパット・シモンズである。
そして1982年に行なわれたフェアウェル・ツアーの模様を収録したライブ・アルバム『フェアウェル・ツアー・ライヴ』(1983年)では、久々に古巣のコンサートに登場し、「ロング・トレイン・ランニン」と「チャイナ・グローヴ」を聴かせている。彼ならではの、かつてのドゥービー・サウンドはハイライトとなった。
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トムは1977年もしくは1978年にドゥービー・ブラザーズを正式に脱退してから、バンドが解散を表明する1982年までの間に、『真実の響き』(79年)、『スティル・フィールズ・グッド』(81年)とソロ・アルバムを2枚発表している。“これらが初期ドゥービー・ブラザーズのサウンドか”というとそうではなく、R&B寄りのAORという方向性の作品だ。マイケル・マクドナルドやパット・シモンズらも参加しているのだが、当時のドゥービーズのような音にもなっていない。要するに、ソロ・アルバムであってバンドではないということだろう。
トムはやはり、ドゥービー・ブラザーズというバンドの中心人物であってこそ真価を発揮するのであり、彼の復活は1989年の再結成まで待たなくてはならなかった。
最後に加入したギタリスト、ジョン・マクフィーの真価
ドゥービー・ブラザーズのギタリストとして、ジェフ・バクスターの後任となったのがジョン・マクフィーという男。バンドの末期に加入し、『ワン・ステップ・クローサー』(1980年)と『フェアウェル・ツアー・ライヴ』(1983年)だけの参加ということもあり、貢献度として分が悪いのが気の毒なところ。また、当時彼がディーン製ギターを弾いていたことは、従来のファンの目には少々異質に映っただろう。
しかし、さすがジェフ・バクスターの後任だけのことはある。ドゥービー・ブラザーズに加入するまでにもスタジオで多数のセッションをこなし、ヴァン・モリソン、ボズ・スキャッグス、スティーヴ・ミラー・バンド、ビル・ワイマン、エルヴィス・コステロなどのアルバムに参加している。バンドとしてもクローヴァーのメンバーとして1970〜77年まで4枚のオリジナル・アルバムをリリース。このバンドはのちにヒューイ・ルイス&ニュースで大ブレイクするヒューイ・ルイスやジェフ・ポーカロも在籍していたバンドで、初期はCCRのようなスワンプなロック、後期は洗練された西海岸サウンドを聴かせていた。
ドゥービー・ブラザーズにおける唯一のオリジナル・アルバム『ワン・ステップ・クローサー』ではあえてAOR風のプレイに徹しており、彼が作曲したインストゥルメンタル曲「サウス・ベイ・ストラット」はアルバムに新しい風を吹き込んだ。
解散後にはキース・ヌードセンとともにサザン・パシフィック(1985年〜89年にかけて4枚のアルバムを発表)を結成。このバンドにおけるカントリー・テイストが、彼本来の持ち味なのだろう。ドゥービー・ブラザーズのステージでもギターのみならず、ペダル・スティール・ギターやフィドルも演奏しており、現在も再結成ドゥービーズに参加している。