モダン・ブルースの父=T-ボーン・ウォーカーがファンク路線に足を踏み入れた時、そのグルーヴを担ったギタリストがメル・ブラウンだった。この“ジャズファンク外伝”にブルース畑から参戦するメルの、ギタリストとしての足跡を辿っていこう。
文=久保木靖
デルタ出身、“ブルースマン”としての出自
出自は生粋のデルタ・ブルース。やがてエレクトリック・ギターを手にしたその男は、あのT-ボーン・ウォーカーがファンク路線に進む際の燃料となり、御大の魂を燃え上がらせて再起を成功させるという、歴史的にも重要な役割を果たした。彼がブルースに根差したジャズファンク道を開花させるのは、まさにその直後だ──。
メル・ブラウンは1939年10月7日、ミシシッピ州ジャクソンに生まれる。父のジョン・ヘンリー・バッバ・ブラウンは、1920〜1930年代にトミー・ジョンソンやジョニー・テンプルらとも共演したデルタ・ブルースマン(1960年代に再発見されて録音もある)。幼き日のブラウンは、その父親やジャクソンを訪れたブルースマンたちから手ほどきを受け、音楽センスを身につけていった。
しかし、14歳の時に髄膜炎に罹り、数ヵ月間寝たきりに。不憫に思った父親は、療養中のブラウンにギブソンのレス・ポールと小型アンプを買い与えた。それを手に、B.B.キングやT-ボーン・ウォーカーといったブルースから、ハンク・ウィリアムスのようなカントリー、そしてルイ・ジョーダンやタル・ファーロウといったジャズを熱心に研究。“ある日突然、すべてが理解できたんだ。B.B.キングやタル・ファーロウがやっていることがね”、とは後年の本人談。
快気したブラウンは、エルモア・ジェイムスやハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズといったブルース/R&Bのレジェンドを間近で見て刺激を受けると、16歳の時、ブルース・ハープのサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIのバンドに雇われた。そこで腕に自信をつけたブラウンは、武者修行のため1955年にロサンゼルスへ。しかし、大都市のパワーとレベルの高さに圧倒され……“ずっと綿花畑の周りにいたから、自分より上手く演奏する人がこんなにいるとは思わなかった。ミシシッピに帰ってもっと練習しようと思ったんだ”と、2年ほどで帰郷。
ロサンゼルスでT-ボーンをファンクさせる
1958年、再びロサンゼルスの地に立ったブラウン、今度は準備万端だった。時代に即したセンスとテクニックを武器に、ジョニー・オーティス(band leader)やエタ・ジェイムズ(vo)といったシーンの一線を走るミュージシャンたちから重宝がられる存在にまで成長していたのだ。ちなみに、レス・ポールから同じギブソンのES-175Dに持ち替えたのはこの時期である。
1963〜1967年は、クラブ・サンズのハウスバンドの一員となり、ピーウィー・クレイトン(vo, g)やジョニー・ギター・ワトソン(vo, g)、サム・クック(vo)らのバックを務めた。と同時に、“ヴァーサタイルなブルース/R&B系ギタリスト”として重宝がられ、様々なセッションに呼ばれる。中でもオリヴァー・ネルソン率いるビッグバンドの『Live From Los Angeles』(1967年)は特筆で、ブラウンのギターを全面フィーチャーした「Guitar Blues」という隠れ名演もあり。
そんな折、クラブ・サンズでのプレイに感銘を受けたのが、T-ボーン・ウォーカーだった。“モダン・ブルース・ギターの父”という名声をほしいままにしていたウォーカーだったが、そのプレイ・スタイルがマンネリの危機に陥っており、再起をかけた新作『Stormy Monday Blues』、『Funky Town』(ともに1967年録音/1968年リリース)にブラウンを起用。御大が“ファンキー・ブルース”という時流に乗ることができたのは、そのバックにブラウンの激しい16ビート・カッティングがあったことを記憶しておきたい。
このウォーカーの2作品でプロデュースを務めていたボブ・シールが今度はブラウンに目をつけ、初リーダー作『Chicken Fat』(1967年)が作られた。本作とブラウン参加のウォーカー作品のゴツゴツとしたファンク・スタイルは同系統……これはやはり、ブラウンのアイディアが御大のアップデートに大きく寄与したととらえてもいいだろう。
そして、よりスマートになった2nd作『The Wizard』(1968年)から、3rd作『Blues For We』(1969年)、4th作『I’d Rather Suck My Thumb』(1970年)、5th作『Mel Brown’s Fifth』(1971年)、そして、どっぷりとブルースに浸かった6th作『Big Foot Country Girl』(1973年)まで、コンスタントにアルバムをリリースし、ここに全盛期を迎えた。
その後は、トンポール・グラサー(vo)のアウトロー・バンドやアルバート・コリンズのアイスブレイカーズに名を連ねたかと思えば、ボビー・ブランド(vo)のバンドでピアノを弾き、リッチー・コール(sax)の作品でドラムを叩くなど、断続的でとりとめのない活動に。1990年以降はカナダに居を移し、ゴルフに興じながらも、アルバム制作やブルース・コミュニティでギグを継続した。
そして2009年3月20日、肺気腫の合併症のため、オンタリオ州キッチナーにて69歳で逝去。ブラウンは極度のヘヴィ・スモーカーであり、死の6年前から酸素吸入が必要な生活を強いられていた。
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