エリック・クラプトンを象徴する“ブラッキー”の基本を押さえておこう エリック・クラプトンを象徴する“ブラッキー”の基本を押さえておこう

エリック・クラプトンを象徴する“ブラッキー”の基本を押さえておこう

この世で最も有名なストラトキャスターと言っても過言ではない、エリック・クラプトンの“ブラッキー”。複数のストラトを組み合わせて作られたこの1本には、有名すぎるがゆえに、その来歴や仕様についての真偽不明な説がいくつも存在する。今回はそれらも含めて、“ブラッキー”のエピソードを紹介していきたい。

文=細川真平 Photo by Larry Hulst/Michael Ochs Archives/Getty Images

“ブラッキー”はどこからやってきたのか?

“エリック・クラプトンのギターと言えば「ブラッキー」”、という方は多いだろう。

彼のシグネチャー・モデルである“エリック・クラプトン・ストラトキャスター”が発売されてからも、ブラック・フィニッシュの個体の場合には“ブラッキー”と呼んでしまうことも通例化しているようだ。

しかし、本物の“ブラッキー”は、言うまでもなく1本しかない。

デレク・アンド・ザ・ドミノスは一度だけTV番組に出演したことがある。1970年11月5日に米テネシー州ナッシュビルで収録された、ジョニー・キャッシュがホストを務める『Johnny Cash Show』だ(オンエアは1971年1月)。

この収録のために同地を訪れたエリックは、中古(この時にはビンテージという概念はない)の50年代のストラトを数本、1本につき100ドルで購入した。ただ、このあたりの詳細については、あやふやなところがある。

ショー・バッド(Sho-Bud)という店で購入したというのが通説ではあり、エリック本人も自伝などでそう語っている。だが、この年にナッシュビルでオープンし、今でも存続している有名な楽器店、グルーン・ギターズ(Gruhn Guitars)のオーナー、ジョージ・グルーンが自分の店で売ったと発言しているのだ。ジョージは加えて、“必要なパーツを同じ日に、エリックが近くのショー・バッドで購入した”とも言っている。また、購入本数は6本というのが通説だが、ジョージは4本だとも。

今となっては何が真実かわからないが、ジョージとエリックには今でも親交があることを考えると、ジョージが口から出まかせを言っているとは思えないところもある。

そして、エリックの発言が正しいとすると、彼はイギリスに帰ってからその6本のうちの3本を、スティーヴ・ウィンウッド、ジョージ・ハリスン、ピート・タウンゼントにそれぞれプレゼント。残った3本から気に入った部分を寄せ集めて、1本のギター、つまり“ブラッキー”を組み上げた。

しかし、これにも別の説が。エリックのギター・テックだったテッド・ニューマン・ジョーンズ(その後、キース・リチャーズのギター・テックを経てニューマン・ギターを設立)がナッシュビルで組んだという話もある。

1979年から2009年までエリックのギター・テックを務めたリー・ディクソンによると、“ブラッキー”のために選ばれたのは、56年製のボディ(アルダー)に57年製のネック。ネック・プレートに刻まれたシリアル・ナンバーは“20036”だが、もちろんこれがどの個体のものはか不明だ(ただ、このシリアル・ナンバーは57年のものなので、ネックとともに採用された可能性が高い)。

ピックアップに関しては年式の特定ができていないようだが、リーによるとボディとネックを取ったのとは別の、3本目のギターのものだったという。これも、56年製か57年製のどちらかではないかとは言われている。

こうして、史上初の“フランケンシュタイン”ギター、“ブラッキー”ができあがった。

エリック・クラプトンとブラッキー

また、“ブラッキー”がどの時点で完成したのかは不明だが、ドミノスは1971年になって解散し、エリックも隠遁生活に入ってしまう(同年8月のジョージ・ハリスンが主宰した“バングラデシュ難民救済コンサート”と、12月のレオン・ラッセルのライブにはゲストとして参加しているが)。彼が自ら組んだというのが正しいとすれば、その隠遁生活に入って時間ができてから、のんびりと行なったのではないかと推測される。

ロック史に残る数多くの名盤を彩る

“ブラッキー”が初めて人前に登場したのは1973年1月13日、ロンドンのレインボー・シアターで行なわれた“レインボー・コンサート”の1stショーでのことだ。このコンサートは、ピート・タウンゼントがエリックをミュージック・シーンの第一線に引き戻すために企画したもの。つまり、エリックのカムバックと“ブラッキー”のデビューが同時だったわけだ。

そして、レイド・バックへとスタイルを変え、『Layla〜』以来4年ぶりとなったアルバム『461 Ocean Boulevard』(1974年)を始めとして、“ブラッキー”はまさにエリックの相棒として活躍していくことになる。

『Slowhand』(1977年)、『Backless』(1978年)、ライブ・アルバム『Just One Night(邦題:ジャスト・ワン・ナイト〜エリック・クラプトン・ライヴ・アット武道館〜)』(1980年)でジャケットに登場していることからも、“ブラッキー”が格別の寵愛を受けていることがよくわかる。

ただし、1974年の初来日公演では、ボディの一部カットされたギブソン・エクスプローラーがメインで、“ブラッキー”は少ししか登場しなかったし、翌1975年の来日公演ではツアー直前に入手した新品のテレキャスターを使用した。

それらから考えると、ライブにおいて“ブラッキー”がメインとなるまでには時間がかかったようだ。

1977年の来日公演では“ブラッキー”がメインだったと言われることも多いが、実際にはサンバーストのストラト(“ブラウニー”かどうかは不明)もかなり使用されたようで、必ずしも“ブラッキー”がメインとは言えない。

日本武道館で『Just One Night』が録音された1979年の来日公演では“ブラッキー”がメインだったから、ライブにおいてこのギターが絶対的なメインになるのは、実はこのあたりの時期からだったと言えるように思う。

もう1つ付け加えておくと、“ブラッキー”にはそっくりのサブ・ギターがあった。1997年にエリックからウドー音楽事務所に寄贈された57年製のストラトで、シリアル・ナンバーは“18129”。1970年代から80年代半ばまで(つまり“ブラッキー”期)にサブとして使用したというから、遠目で“ブラッキー”だと思っていたものが、実はサブだったということもあり得ないことではない。

“ブラッキー”が引退してから辿った道のり

“ブラッキー”は1985年の“Behined the Sunツアー”を最後に引退。その頃には長年の酷使によって、ネックが相当傷んでいたようだ。

その後は、1990年にホンダの車、ASCOTのCMの中でクラプトンが使用、「Bad Love」を奏でた(エリックはソロを“ブラッキー”で新たに録音している)。このCMでの“ブラッキー”の登場は、ホンダ側からのリクエストだったという。また、1991年にはアルバート・ホールでの連続公演の中で1回だけ登場している。

2004年、“ブラッキー”はエリックが主宰するクロスロード・センターの資金調達のためにオークションに出され、959,500ドルで落札された。これは当時、ギターの販売額としては史上最高記録だった。落札したのはアメリカの大手楽器販売店チェーン、ギター・センター。ちなみに、ギター・センターと競り合ったのはマイクロソフトだったと聞く。

考えてみると、“ブラッキー”が一線を退いてからすでに40年近く、オークションで落札されてからでも20年もが経つ。しかしそれでも、今なお“ブラッキー”はエリックを象徴するギターとして、多くの人々に強烈な印象を残している。

それは、「I Shot The Sheriff」、「Cocaine」、「Wonderful Tonight」などの名曲とともに、そのトーンが我々の心に刻み込まれているからでもあるだろう。