連載:『Player』盛衰記 第11回|憧れのマーティン・ギター 連載:『Player』盛衰記 第11回|憧れのマーティン・ギター

連載:『Player』盛衰記 
第11回|憧れのマーティン・ギター

2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。

文=田中 稔

第11回
憧れのマーティン・ギター

70年代のアコースティック・ギターといえば、大型のドレッドノートが基本だった。当時、日本ではドレッドノート・タイプを“ウェスタン”と呼び、ひと回り小型の000タイプを“フォーク”と呼んでいた。各国内メーカーからは様々なモデルが発売されたが、その8~9割がウェスタンで、フォークは1~2割程度、しかもフォーク・ユーザーの大半が女性だった。

そもそもドレッドノートはマーティン社が特別に大きなギターとしてデザインしたもので、小柄な日本人にはいささか大きいが、これがアコースティックの標準とされていた70年代は小柄な人でもドレッドノートにこだわり、その力強いサウンドと外観に憧れた。

マーティンを含め000モデルがスタンダードな存在として広く認知されたのは、エリック・クラプトンが1992年に発売したアルバム『Unplugged』の登場以降である。アンプラグド・ブームにおけるクラプトンの影響は凄まじく、フィンガー・スタイルのブームとも重なったことで、000モデルの魅力が瞬く間に世界中で認知された。

60年代末からマーティン・ギターは極少数日本にも入荷するようになったが、当時はプロミュージシャンでもなかなか敷居が高く高嶺の花だった。アコースティックに力を入れていたYamahaなど一部の大手楽器店やカワセ楽器、梅田ナカイ楽器など極限られたお店でしかマーティン・ギターを目にすることがなかった。

大学の軽音楽サークルなどで誰かがマーティンを購入すると大騒ぎになり、頼み込んで憧れのマーティンを試奏させてもらうという光景も見られたようだ。それまで国産の安価なモデルしか弾いたことがなかった当時のアマチュア・ギタリストは、“あ~、これがマーティンの音か……”と、その清々しい煌びやかなサウンドと感動が心に深く刻み込まれた。

それもそのはず、70年代初頭のマーティンD-45は自動車が買えるほどの価格帯で、しかも当時は楽器を値引き販売する慣習もほとんどなかったこともあり、ただただ憧れの的だった(72年まで1ドル=360円の固定相場制)。

68年に再発売されたマーティンD-45が翌年日本に初めて入荷し、当時活躍していた加藤和彦やガロの堀内護(通称マーク)がいち早くこのモデルを入手し、ファンの間で話題となった。当時はD-18やD-28でさえ高嶺の花だったが、D-45はD-28の3倍近い価格だと聞いて、多くのギター・ファンがひっくり返りそうになった。

当時から加藤和彦が愛用した伝説の69年製D-45は、現在小川町にあるアコースティック・ギター専門店、ウッドマンの店頭ショーケースの中で見ることができる。

次回は70年代のヴィンテージ・ギター・シーンに関して紹介する。

戦前のD-45
戦前に生産されたD-45。ヘッド・フェイスがべっ甲タイプという超レアな仕様。オーナーは福山雅治。
000-45とD-45
左が000-45、右がD-45。1940年に生産された製品で、同じ時期に生産された2本が並ぶ奇跡のショット。
D-12-45とD-12-41
70年代のD-12-45とD-12-41。しかもD-41はシェイド・フィニッシュという超レアモデル。小倉博和所有。
000-42
エリック・クラプトンの愛用でその存在がクローズアップされた000-42(1942)。撮影:大谷十夢治。
D-200 デラックス
シリアルナンバー2,000,000を記念して製作されたD-200 Deluxe。ギターというよりまさにアート。

プロフィール

田中 稔(たなか・みのる)

1952年、東京生まれ。1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。現在フリーランスの編集者として活動中。アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。

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『Player』盛衰記