2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。
文=田中 稔
第16回
「あの……社員を募集していませんか?」
これまで、『Player』が急成長を遂げた1970~80年代の音楽シーンやギター・シーン、音楽雑誌シーンなどについて紹介してきた。そして前回は、リットーミュージックの『Guitar magazine』との関係についても紹介した。今回からは、いよいよ私がプレイヤー・コーポレーションに入社した頃の話をしよう。
私が『Player』の発売元であるプレイヤー・コーポレーションに入社したのは、1975年秋だった。プレイヤーは株式会社だが、入社した1年近く前までは赤星ミュージカル・スタジオという小さな音楽事務所によって『Player』の前身『The Young Mates Music』(ヤング・メイツ・ミュージック。以下、Y.M.M.)が発刊されていた。当初の『Y.M.M.』はまだ雑誌体裁ではなく、タブロイド判(A3判よりひと回り小さなサイズ)8ページの新聞体裁で、中綴じの雑誌スタイルになったのは1970年代初頭である。
創業者である赤星建彦(1921~2012年)は音楽家で、それまで幅広い活動を行なってきたが、その一環として個人音楽事務所である“赤星ミュージカル・スタジオ”によって企画・制作されたのが『Y.M.M.』だった。

当初の詳しいストーリーについては改めて紹介するが、創刊から約7年間は音楽雑誌でありながらも書店ではなく楽器店で販売されるという、かなりイレギュラーな雑誌だった。今考えても『Player』はいろいろな意味でユニークな存在だったが、1968年のスタート時から一般的な音楽雑誌とは異なり、音楽業界というより楽器業界をベースとして成り立っていた。
私は1975年春に東洋大学文学部教育学科を卒業した。教職員免許状を取得するも、教職員という仕事につくことに今ひとつ疑問を感じていた私は、卒業後も大学時代からのアルバイトを続けながら自分が進むべき道を手探りしていた。学生時代は、フォーク・ロック系のバンドを組んで音楽活動に明け暮れた日々を過ごしていたが、卒業後は一般企業に就職した同期のバンド仲間や音楽仲間を横目で見ながら、自分だけが社会から取り残されたような一抹の不安を感じていた。
卒業から半年が過ぎた頃、“さすがにそろそろ就職しなければ……”という焦りもあり、“自分に合った仕事とは何だろう? できるなら音楽に関係する仕事がしたいが、どうすればそれが見つかるのか……”。
大学サークルの3つ上の先輩に、大塚康一さんという音楽ライターがいた。大塚さんは大学時代からギターの名手で、シンコーミュージック(旧社名)などでアコースティック・ギターの教則本などを執筆し、すでにこの業界では知られた存在だった。私はある時大塚さんに進路のことで電話をかけた……。
“音楽関係で、社員を募集している会社を知りませんか?”。すると“推薦はできないけど、『Player』という音楽雑誌で原稿を書いているので、そこに聞いてみたら?”とアドバイスされ、プレイヤー・コーポレーションのドアを叩くことになった。

“『Player』か‥‥”。当時、『Player』が楽器店のレジ横に積まれていたことは知っていた。しかし、ハードロック色が強いカバーが多く自分が好きなアコースティック系ではなかったこともあり、ほとんど読んだことがなかった。
“でも音楽雑誌の出版社なら面白そうな仕事かも……”と考え、さっそく楽器店で『Player』を入手して、奥付に書かれていた発行元に電話をかけた。
“あの……、今年大学を卒業した者なんですが、プレイヤーさんで社員かアルバイトを募集していないでしょうか?”。すると電話口に出た女性が“アルバイトですか? だったら面接をしますから、履歴書を持って⚪︎日の⚪︎時に会社に来てもらえますか”とあっさり言われ、慌てて『Player』を熟読した。それが私と『Player』との50年近い関わり合いの始まりだった。
面接にあたり、『Player』の最新号を何度か読み返してにわか愛読者となった私は、指定された日時に西新宿にあるプレイヤー・コーポレーションに向かった。プレイヤーは高層ビル街のすぐ隣にあるが、当時は高層ビルといっても京王プラザホテルや野村ビル、三井ビル程度しか建設されておらず、淀橋浄水場跡地はまだ閑散としていた。70年代半ばの西新宿7丁目は、新宿とは言ってもまだ古いアパートや一般住宅が建ち並ぶ住宅街で、人々の生活の匂いがした……。

著者プロフィール
田中 稔(たなか・みのる)
1952年、東京生まれ。
1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。
以後はフリーランスの編集者として活動し、2025年4月、クラプトンに魅せられた10人のE.C.マニアのクラプトン愛を綴った『NO ERIC, NO LIFE. エリックに捧げた僕らの人生.』(リットーミュージック発刊)を制作。2025年9月、電子マガジン「bhodhit magazine(バディットマガジン)」の名誉編集長に就任。
アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。