2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。
文=田中 稔
第21回
『Player』発行人:山中多賀子
70年代の『Player』発行人は、山中多賀子さんだった。彼女は私より10歳ほど歳上で、入社の時に私を面接してくれた人物である。もともとプレイヤー・コーポレーションの前身となる赤星スタジオのスタッフで、赤星先生の右腕である共ににプレイヤー設立メンバーであり、役員、発行人でもあった。彼女は60年代末から、赤星スタジオでラジオ番組の制作や楽器の教則本の制作などを行ない、プレイヤー・コーポレーションが設立された以降も赤星スタジオの仕事を兼任していた。
山中さんは、いつも精力的に動き回る赤星先生のサポートをしていたため、先生に付き添って外出することが多かった。本来先生の奥さんだが、社内では夫婦らしい会話はほとんどなく、また当時は旧姓の山中を名乗っていたこともあり、彼女が奥さんであることを知ったのは入社してしばらく経ってからだった。
彼女は『Player』の発行人だが、編集や制作面に関してはほとんど河島編集長に一任しており、彼女が編集内容を決めたり、取材や編集作業を行うことはなかった。しかし、経理面に関してはすべて管理しており、経費に関して注意されることはしばしばあった。70年代半ばまでのプレイヤーは経済的に厳しい状況で、消しゴムや鉛筆を1つ買うにも彼女の許可が必要で、自分の判断で購入することは許されなかった。
山中さんは音楽大学の声楽科を卒業しており、歌やピアノが得意だった。当時、赤星スタジオではボーカルのレッスン業務も行なっていて、何人かの女子学生が通っていた。実際にレッスンを行なうのは先生ではなく山中さん。当時のプレイヤー・オフィスは赤星スタジオと同居しており、先生関連の来客もあった。
“赤星スタジオ”とは言っても、レコーディング・スタジオなどとは違い、住宅用のマンションを簡易にリノベーションしただけのかなりラフな防音設備の部屋があるだけで、そこでピアノを弾いたり歌のレッスンをすると、それが編集部まで聴こえてくる。レッスンが始まると、ロック雑誌の編集部とは思えないオペラのファルセットのような歌声が聴こえてくることもあった。
赤星スタジオではラジオの音楽番組の制作や音源制作などの業務も行なっていたが、スタジオには小さな机ほどの16チャンネル(?)のレコーダーが設置されていて、山中さんが時々テープの編集作業をしていた。
彼女は経理面で細かかったことを除けば、基本的にはおっとりした性格で、多少大雑把なところもあるが、いつも社員には親切に対応をしてくれた。先生がかなりせっかちな性格なので、2人はある意味ではバランスが取れていたのかもしれない。
現在、山中さんは赤星多賀子として先生が1977年に設立した“公益財団法人 東京ミュージック・ボランティア協会”を引き継ぎ、理事長として小平で協会の運営を行なっている。先生の意志を継ぎ、療育音楽や音楽治療に長年取り組んでおり、その領域における日本の第一人者となっている。



著者プロフィール
田中 稔(たなか・みのる)
1952年、東京生まれ。
1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。
以後はフリーランスの編集者として活動し、2025年4月、クラプトンに魅せられた10人のE.C.マニアのクラプトン愛を綴った『NO ERIC, NO LIFE. エリックに捧げた僕らの人生.』(リットーミュージック発刊)を制作。2025年9月、電子マガジン「bhodhit magazine(バディットマガジン)」の名誉編集長に就任。
アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。