ブルース・コンテ追悼タワー・オブ・パワーの黄金期を支えた名手を偲ぶ ブルース・コンテ追悼タワー・オブ・パワーの黄金期を支えた名手を偲ぶ

ブルース・コンテ追悼
タワー・オブ・パワーの黄金期を支えた名手を偲ぶ

2021年8月8日、タワー・オブ・パワーの黄金期を支えたギタリスト、ブルース・コンテが亡くなった。ホーン隊を擁するTOPの中でもギター1本で存在感を誇示し、唯一無二のファンク・バンドたらしめた名手だ。日本にもファンの多いブルースに敬意を込め、必聴プレイリストとともに彼の歩みを振り返っていこう。

文/プレイリスト作成=佐藤英輔 Photo by Brian McLaughlin/Michael Ochs Archives/Getty Images

タワー・オブ・パワーへの加入

米国西海岸ベイ・エリアに、ブルース・コンテあり。個人的にはカルロス・サンタナに続く存在だとぶち上げたくなる気持ちもあるのだが、アンダーレイテッドなギタリストであると、ぼくは思わずにはいられない。

本名ブルース・アンソニー・コンテは1950年3月3日、カリフォルニア州サンガーに生まれ、同州フレズノで育つ。ベイ・エリア天下のファンク・バンドであるタワー・オブ・パワー(TOP)のギタリストとして何より知られる彼が、フレズノからベイ・エリアに引っ越したのは1969年ごろだ。そこで彼は、のちにサンタナに入るトム・コスター(k)らととともにローディングというバンドを組んでいる。そして、現場では当然のことながらTOPと顔を合わせたりもし、1972年に彼はTOP入りする。1979年まで、彼はTOPのメンバーとして活動。その時期はTOPが最もブイブイ言わせていた時期であり、ブルース・コンテ=TOPでの演奏と言って差し支えないだろう。当人も、“その時代は自分の人生でもっとも輝かしい音楽体験の1つ”としている。

TOPのアルバムは、3作目『Tower Of Power』(1973年)から『We Came To Play』(1978年)までの7作品に参加。プレイリストには入れることができなかったが、ライブ盤『Live And In Living Color』(1976年)でも彼は弾いている。なお、フレズノ時代に彼はベーシストで従兄弟のヴィクター・コンテとともにソウルとジャズを掛け合わせたコモン・グラウンドというバンドを組んでいた。そのヴィクターはセッション奏者としても活躍し、1970年代後期に一時TOPに入ったこともある。その後ヴィクターは、1980年代中期に興したスポーツ栄養補助食品会社のトップとして名を成した。

ブルースに根ざしたプレイ・スタイル

ブルース・コンテの肝心の演奏だが、見事に多彩。まさに、名手と絶賛したい。まずは臨機応変に様々な押さえ方をするコード・ワークがもう絶妙。「Drop In The Slot」のように基本画一的なリフを刻む場合もあるが、曲の流れに沿って自在に弦を押さえるさまはジャズの素養もありと思わされる。事実、彼はグラント・グリーンを愛好していたようだ。また、スローな楽曲における演奏でも、様々なR&Bのギター伴奏様式をモノにしているのがよくわかる。

ホーン隊の絡みが売りのバンドだけにTOP作品において彼のギター・ソロが入れられる比率はそれほど高くはないが、プレイリストの1曲目の「What Is Hip?」に表われているように、単音によるそれはかなりブルージィだ。アルバート・キング好きという話にも頷ける。プレイリスト終盤に入れた彼の2002年ソロ作『Bullet Proof』の曲群も、“俺の根にはブルースがある”という曲調やソロが耳につく。かと思えば、1997年ソロ作『Right From My Heart』はスムース・ジャズ作だった。とかなんとか、本当にブルース・コンテの音楽的キャパシティはデカい。だが、彼を彼たらしめる、いぶし銀の閃きが随所に埋め込まれていたことをぼくは強調したい。

ところで、その風貌はなかなかにワイルドだ。パンチ・パーマが拡大したようなかつてのアフロ・ヘアーのさまはインパクトあり。それが、TOPをやめていつの間にか短髪になるととてもいい人っぽくなっていて、その落差は見事すぎる。蛇足だが、2008年にTOPのリーダーであるエミリオ・カスティーロにインタビューしたら、若い時は無茶三昧で“昔は薬や酒やパーティ好きをつとめてバンドに入れていた”そう。

アイコニックなゴールドトップ・レス・ポール

彼の使用ギターについても記しておこう。ブルースは、TOP時代からPAFを搭載したゴールドトップのレス・ポール・モデルを使用。1957年ごろのレアもので、ピックアップ・ポジションはフロントを選んでいた。そのレス・ポールは2006年ごろに手放しており、その後はBaker Guitarsのオリジナル・モデルを使用。アンプはフェンダーの大型のスーパー・リバーブやクアッド・リバーブをTOP時代は使用していた。

ブルースはTOP脱退後、西海岸でいくつかのバンドを組んだりもし、また2000年代中期にはTOPに一時復帰もしている。そんな彼は自由な人のようで2008〜09年にはフィリピンのリゾートであるセブ島に移住。だが、2012年には米国に戻っており、それは彼が白血病と糖尿病を患ったからだと思われる。同年には病の彼への寄付を募るFacebookページができ、2015年3月にはベネフィット公演が行なわれたりもした。しかし、再びフィリピンに戻ったようで、彼は2021年8月8日に同地でお亡くなりになった。