1973年、センチメンタル・シティ・ロマンス結成。 初期三部作までの道のり。 1973年、センチメンタル・シティ・ロマンス結成。 初期三部作までの道のり。

1973年、センチメンタル・シティ・ロマンス結成。
初期三部作までの道のり。

ギタマガ2021年10月号の特集『センチメンタル・シティ・ロマンス三部作』から抜粋してWEB用に再構成した本特集。まずは、バンドの結成秘話からお届け! 日本語ロック? シティ・ポップ? 現代においても様々な解釈ができるスケールの大きなサウンドを作り上げていたセンチメンタル・シティ・ロマンスとは、一体なんだったのか?

文=小川真一 写真提供/協力=センチメンタル・シティ・ロマンス、高山富士子、新倉愛、三浦憲治、ステキッスレコーズ

上から1st『センチメンタル・シティ・ロマンス』、2nd『ホリディ』、3rd『シティ・マジック』。どれも素晴らしいギター・サウンドに彩られた不朽の名作だ。今回はこれらを“センチ三部作”とし、特集を展開する。

1stアルバム/1975年
『センチメンタル・シティ・ロマンス』

2ndアルバム/1976年
『ホリディ』

3rdアルバム/1977年
『シティ・マジック』

 センチメンタル・シティ・ロマンスの赤いバスを見たことがあるだろうか。コンサート・ツアー用の大型バスで、この赤バスに機材を載せ、ライブハウスへ野外コンサートへと、全国各地を走り回っていた。自分たち専用の機材車を持つなんて、当時でも夢のまた夢。その夢をロックンロールで実現させたのが、センチメンタル・シティ・ロマンスだったのだ。

センチメンタル・シティ・ロマンスのバンド・ロゴが入った、コンサート・ツアー用の大型バス。
こちらは1stアルバムのジャケにも登場している黄色いトラック。

 結成は名古屋。72年に佐藤信(演出家)が主催する演劇集団、黒テントの幕間で弾き語りをしていた告井延隆(つげい・のぶたか、ボーカル/ギター)に、中野督夫(なかの・とくお、ボーカル/ギター)が声をかけたことから始まる。当時の告井は参加していたロック・バンド、乱魔堂を抜けたばかりであった。

センチメンタル・シティ・ロマンスのボーカル/ギター、中野督夫(なかの・とくお)
同じくセンチメンタル・シティ・ロマンスのボーカル/ギター、告井延隆(つげい・のぶたか)

 中野督夫は1954年生まれで、高校時代には同級生らと三人組のフォーク・グループを組んでいた。その名前が、バッファロー・スプリングフィールドをもじった、赤ずきんスプリングフィールドというから、随分と早熟な高校生だったと思う。このグループは、全日本アマチュア・フォーク・コンテストに出場。同コンテストの入賞者を集めたオムニバス・アルバム『全日本アマチュア・フォーク・コンサート』には、赤ずきんの名義で中野のオリジナル曲「おまえ」が収められている。なお赤ずきんは、71年にピンク・フロイドが初来日しライブをくり広げた伝説の箱根アフロディーテのサブ・ステージにも出演を果たしている。

 中野はその後、キーボードの細井豊と出会い新たにシアンクレールを結成。これは京都にあったジャズ喫茶ではなく、“思案に暮れる”から付けられたという。このグループがセンチメンタル・シティ・ロマンスの直接的な母体となっていく。

 告井延隆は1950年生まれで名古屋出身。東京に出て、乱魔堂の強化メンバーとして活動していた。乱魔堂は、元ブラインド・レモン・ジェファーソンのギタリストである洪栄龍、猿山幸夫らによって結成されたバンドで、早くから日本語によるロックを目指していた。告井は72年の乱魔堂の唯一のアルバム『乱魔堂』のレコーディングに参加している。

 センチメンタル・シティ・ロマンスがスタートを切ったのは、73年のこと。シアンクレールの中野督夫(ボーカル/ギター)、細井豊(キーボード)、田中毅(ドラムス)の3人に、ホワイト・ハウスにいた加藤文敏がベースで加わり、そこに告井延隆(ボーカル、ギター、ペダル・スティール)がリーダー兼コーチとして参加した。中野の実家のガソリン・スタンドの二階を練習場所(下写真)にリハーサルを重ね、次第にセンチのサウンドが練られていく。

センチメンタル・シティ・ロマンスの練習場所だった、ガソリン・スタンドの二階。中野督夫の実家だった。

 73年の5月5日、大阪の天王寺野外音楽堂で開かれた3回目の『春一番コンサート』に出演。これが実質的なデビュー・コンサートとなる。春一番の主催者である福岡風太はセンチのサウンドが気に入り、毎年のように彼らを招いただけでなく、ロード・マネージャーとしてバンドに深く関わることとなるのだ。翌年の74年の夏には、福島で行なわれたワンステップ・フェスティバルにも出演。その後は池袋のシアターグリーンで開催されていたホーボーズ・コンサートに参加するなど、活動の場を全国に広げていく。

 そして、75年にCBS/Sonyと契約し、記念すべきデビュー・アルバム『センチメンタル・シティ・ロマンス』を発表。突き抜けるような青い空が印象的なジャケットで、発売当時のオビには、“青い空と白い雲、そして爽やかな熱い風、ロスの薫りを充満して彼等は今!”と紹介されていた。元はっぴいえんどの細野晴臣がプロデューサー役として依頼されたのだが、“プロデュースする余地のない完璧なスタイルを創っている”との理由で、チーフ・オーディエンスと名乗った。ジャケットのクレジットは“Sentimental Romantist”となっているが、新しい世代のロック・バンドの誕生の場に、自分が居合わせることに意義がある、としている。

 アルバムの最後に「ロスアンジェルス大橋Uターン」が収められているが、名古屋には“ロサンゼルス大通り”が実在する。これは、名古屋とロサンゼルス市が姉妹都市の関係にあるためで、センチメンタル・シティ・ロマンスは、名古屋市長のメッセージを携え渡米した。

 続く76年にはセカンド・アルバム『ホリディ』を発表。ラテン・ビートを取り入れるなど、サウンド・メイクはさらに明快になり、センチらしさが存分に発揮されている。前年から『センチメンタル・パーティ』という名の定期コンサートが、名古屋の中区役所ホールや雲龍ホールで開かれるようになった。そして、77年にはキティ・レコードへ移籍。傑作アルバム『シティ・マジック』をリリースすることとなるのだ。

ギター・マガジン2021年10月号には、本記事に加え、センチメンタル・シティ・ロマンス三部作のギター・フレーズ分析も掲載しています。

ギター・マガジン2021年10月号

●川谷絵音
●センチメンタル・シティ・ロマンス三部作物語
●『All Things Must Pass』とジョージ・ハリスンの魂の開花
●ナッグス・ギターズ トップ・ビルダーが練り上げる美しきハイエンド・ギター