2022年2月6日、シル・ジョンソンが天に召された。ヒップホップでも定番サンプリング・ソースとなった「Different Strokes」や、BLM運動などで改めて注目を集めた「Is It Because I’m Black」など、今なお輝きを失わない数多くの名曲を生み出してきたレジェンド・ソウル・シンガーだが、そのルーツや軸足はブルース・ギターにある。ここに哀悼の意を込め、ギタリストとしての彼の歩みを辿っていきたい。
文=福崎敬太 Photo By Raymond Boyd/Getty Images
マット・ギター・マーフィーからの影響とマジック・サムとの友情。
シル・ジョンソン=本名シルベスター・トンプソンは、1936年、ミシシッピ州ホーリー・スプリングスに生を受ける。8つ上の兄はブルース・ギタリストのジミー・ジョンソン(本名ジェイムス・アール・トンプソン)、2つ上の兄はマジック・サム・ブルース・バンドのベーシストとして活躍したマック・トンプソン。音楽的なルーツとしてはブルース・ハープを吹く父親の存在もあるが、何よりシルがギターを選んだのは、兄ジミーとその友人の影響だった。
のちに“マット・ギター・マーフィー”と呼ばれるジミーの友達は、幼い頃からギターを習っていた。そのギターを時にジミーへ預けていることがあったそうで、ジミーは外へ遊びにいく時に“俺が出かけている間、勝手にギターに触るなよ!”と、まだ小さいシルに言いつけたそうだ。しかしそう言われると触りたくなるのは仕方のないこと。こっそりとマットのギターを弾いたりする中で、“年上のお兄さんたちがやっているカッコ良いこと”への憧れもあり、シルはすぐにギターにのめり込んでいく。
一時メンフィスで暮らしたあと1950年にシカゴへ移り住むと、時を同じくして近所へと移住してきたサミュエル・ジーン・マゲットと出会う。そう、のちに“マジック・サム”として知られることになる男だ。シルは1つ歳下の彼にギターを教え、ともにシカゴのブルース・クラブへと出演するようになっていった。
その後、セッション・ギタリストとしてジュニア・ウェルズやビリー・ボーイ・アーノルドなどのレコーディングに参加。シェイキー・ジェイクの現場ではマジック・サムと一緒になることもあった。
この頃のプレイは、モダン・シカゴの雰囲気を残しつつも、メジャー・スケールをお洒落に盛り込む洗練された音運びも聴ける。一時メンフィスに住んでいた頃にラジオで聴いた、B.B.キングからの影響を感じることができるだろう。
シンガーとしての成功〜引退状態へ
そして1959年、ジミー・リードのヴィージェイ録音に参加すると、転機が訪れた。同じくジミー・リードのレコーディングに参加していたフィル・アップチャーチとスタジオでセッションに興じていたところ、それがレーベル・オーナーであるヴィヴィアン・カーターの耳に止まり、録音の提案を持ちかけられたのだ。
ただ、ギターでの録音ではなくシンガーとしてのオファーだったため、“歌は本気でやってきていないから”と最初は断っていたという。しかし何度も頼まれるうちにシルも折れ、デモ音源を制作することに。ところが、そのデモを録音したアセテート盤を持ってヴィージェイへ向かおうと思ったところ、ひょんなことから立ち寄ったキング・レコードで曲を聴いてもらう機会を得て、傘下レーベルのフェデラルからの発売が決まった。
そうして1stシングル「Teardrops」が1959年にリリース。これは、ジェイムズ・ブラウンらを抱える大手レーベルということもあり、バックは一流が揃えられたそうで、シル・ジョンソンはおそらくボーカルのみでの参加。本人の記憶だとギターは、ジョン・リー・フッカーやジミー・リードらを支えた名手、レフティー・ベイツだったそうだ。様々なアーティストをギタリストとしてサポートするものの、自身のソロ活動ではシンガー/ソングライター的な立ち位置を強めていく。しかし残念ながらヒットには恵まれず、ハウリン・ウルフのサポートを始め、バック仕事は続けていった。
その後、「Come On Sock It to Me」で初のヒット曲を得ると、同曲を収録した1stアルバム『Dresses Too Short』を1968年にリリース。ファンキーなリズムの中でも、ブルージィなギターがかなりフィーチャーされている。
また、ビートルズのカバー「Come Togather」も収録した2nd『Is It Because I’m Black』(1969年)はスローなチューンの多さにともない、ジャジィでソウルフルに弾き上げるギターが印象的だ。本人が弾いているかはさておき、この頃も彼の楽曲におけるギターの重要度は高いように思える。
そして70年代はハイ・レコーズから4作品をリリース。ハイ・リズム・セクションの素晴らしい伴奏で、サザン・ソウルからディスコへ時代とともに駆け抜けていく。そして80年代に入りハイ・レコードから離れ、徐々にシル自身によるブルージィなギターがよりアンサンブルに組み込まれるようになってきたところで、表舞台から姿を消してしまった。自身が経営するレストラン事業が軌道にのったことにより、引退状態となったのだ。
新世代のブラック・カルチャーがシルを“ゲーム”に呼び戻す
1993年にウータン・クランが「Shame on a Nigga」でシルの「Different Strokes」をサンプリング。そのほかにもシルの楽曲をサンプリングしたヒップホップ・チューンが多く出回った。この状況に対してシルは、楽曲使用料を正当に得るために立ち上がり、ウータン・クランなどとも友好的に問題を解決。またこれを機に自身の音楽が必要とされていることに気づいたのか、表舞台へとカムバックを果たす。
翌1994年に『Back In The Game』でまさしく音楽産業というゲームの世界へ戻ってきた。ブルース由来のシルのギター、サザン・ソウルらしいカラッとしたハイ・リズムのバッキングなど、演奏はリラックスした雰囲気。カムバック以降の作品のほうが、“ギタリストとしてのシル・ジョンソン”という意味ではハイ・レコード時代よりも楽しめるかもしれない。
2014年にはボビー・ラッシュとともにフジロック・フェスティバルで来日したのも記憶に新しいところ。2019年には著書『It’s Because They Were Black』を上梓、兄ジミーも91歳にして新作をリリース、いつまでもパワフルだと信じて疑わなかったところへの2人の訃報だった。兄ジミー・ジョンソンがこの世を去ってからわずか6日後、2022年2月6日に逝去、享年85。
素晴らしい作品やギター名演の数々に感謝するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。