芸術的才能に溢れたトム・ヴァーレインの生涯(1949-2023) 芸術的才能に溢れたトム・ヴァーレインの生涯(1949-2023)

芸術的才能に溢れたトム・ヴァーレインの生涯(1949-2023)

エレキ・ギターで唯一無二の美しいロック・サウンドを紡いだ、トム・ヴァーレイン。多くの偉大なミュージシャンたちに大きな影響を与えてきた天才が、73歳でこの世を去った。今回は、彼と音楽との出会い、テレヴィジョンとしての活動、そして1人の音楽家としての歩みをたどっていこう。

文=長谷鉄弘 Photo by Howard Barlow/Redferns/Getty Images

出生~詩・音楽との出会い

トム・ヴァーレイン、本名=トーマス・ジョセフ・ミラーは1949年12月13日、米ニュージャージー州デンヴィル(Denville)に生まれた。彼が6歳の頃、一家はペンシルべニア州フィラデルフィアに近いデラウェア州ウィルミントン(Wilmington)へ移住している。

10代を迎えて音楽に目覚め、ピアノとサックスの演奏を始めたトムは、まずアルバート・アイラーやジョン・コルトレーンらのジャズに傾倒し、やがて1960年代後半のブリティッシュ・ロックに触れギターへ転向した。中でも強い衝撃を受けた音源は、ローリング・ストーンズ「19th Nervous Breakdown」(1966年)だったという。

デラウェアの寄宿学校(ハイ・スクールに当たる)へ進んだ彼は、そこで生涯に渡る2人の友と出会う。“フロリダで詩を書いて生活したい”という夢を抱いていたリチャード・メイヤーズと、のちにテレヴィジョンのドラマーとなるビリー・フィッカである。

ある時、リチャードとトムは宿舎から脱走して連れ戻されるが、卒業後、前者は堂々とニューヨークへ出て詩人の夢を追い始める。そんなリチャードにトムとビリーが追従し、摩天楼の一画で再会したのは1972年前後だった。

ネオン・ボーイズ~テレヴィジョン

3人はニューヨークでアルバイトをしつつ、詩や音楽で生計を立てる道を模索し始める。この頃にトムは19世紀後半のフランスで活動した象徴主義詩人、ポール・ヴェルレーヌ(Verlaine)の名を借りて“トム・ヴァーレイン”を、リチャードは“リチャード・ヘル”をそれぞれペンネームとしている。

トム(g)とビリー(d)、リチャード(b)が自作の詩を歌うバンド“(ザ)ネオン・ボーイズ”を結成したのは1973年頃で、74年にはリチャード・ロイド(g)が加わり“テレヴィジョン”と名を改めた。

テレヴィジョン。左からリチャード・ヘル(b)、トム・ヴァーレイン(vo,g)、リチャード・ロイド(g)、ビリー・フィッカ(d)。
1975年、ニューヨークのCBGBにて。左からリチャード・ヘル(b)、トム・ヴァーレイン(vo,g)、リチャード・ロイド(g)、ビリー・フィッカ(d)。(Photo by Richard E. Aaron/Redferns/Getty Images)

リチャード・ヘル在籍時のテレヴィジョンは、“Ork Loft Tapes”と呼ばれる記録映像を残している。これは当時のマネージャー/パトロンだったテリー・オークが、ガレージを改装したスタジオでリハーサルを行なう1974年のバンドを撮影したフィルムで、荒削りな中にも唯一無二のアンサンブルが萌芽ほうがするさまを視聴できる。

また、同年には元ロキシー・ミュージック(1973年に脱退)のブライアン・イーノがニューヨークの音楽シーンに関心を示し、テレヴィジョンの演奏を録音した。イーノには英アイランド・レコーズのA&Rマンが同行しており、同社からのアルバム・デビューも計画されていたが、諸事情から音源はお蔵入りしてしまう。

1975年、リチャード・ヘルが元ニューヨーク・ドールズのジョニー・サンダースと“ハートブレイカーズ”を結成するためバンドを去ると、トムらは元ブロンディのフレッド・スミスをベースに迎え、ここに4人のラインナップが確立される。1973年より“CBGB”(※1)や“Max’s Kansas City”(※2)などのクラブで演奏を重ね、すでに鋭いアンテナを持つ聴衆の注目を集めていたテレヴィジョンは1977年2月、デビュー・アルバム『Marquee Moon』をエレクトラより発表した。

テレヴィジョン解散~死去まで

Marquee Moon』は全米チャートにこそランクインしなかったが、全英では28位を記録した。商業的に成功したとは言い難いものの、本作は聴き継がれ、のちにニュー・ウェイヴ~ポスト・パンク・ムーヴメントを牽引するミュージシャンたちへ強い影響を与えたことでロック史に足跡を残している。

テレヴィジョンは続く1978年4月に2nd『Adventure』をリリースするが、同年8月、アルバム・デビューからわずか1年余りで解散する。背景にはリチャード・ロイドの薬物禍や、メンバー各自のソロ志向の高まりがあったようだ。

バンド解散後のトムは1979年の『Tom Verlaine』を皮切りに2006年の『Around』までアンソロジーを含む10枚のソロ・アルバムを精力的にリリースし、パティ・スミスやソニック・ユースのリー・ラナルド、スマッシング・パンプキンズのジェームズ・イハらと共演、07年にはボブ・ディランの伝記(的)映画『I’m Not There』のサウンドトラックにも参加した。

また、テレヴィジョンは1978年の解散後も91~93年(92年に3rdアルバム『Television』を発表)、2001年~10年代後半のピリオドを始めとして集散をくり返し、14年と16年には来日公演も行なっている。

私生活を明かさなかったトムは婚歴の有無も定かでないが、2023年1月28日に73歳で亡くなった時、これを公表したのはジェシー・パリス・スミス(MC5のギタリストであったフレッド“ソニック”スミスとパティ・スミスの娘)だった。訃報がメディアに流れると、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーやビリー・アイドル、スザンヌ・ホフス、R.E.M.ら多くのミュージシャンがSNSで弔意を示した。

トムの生涯に渡る良き理解者であり、一時は恋仲でもあったと言われるパティ・スミスは『The New Yorker』誌に「He was Tom Verlaine」と題する追悼文を寄せ、こう書いている。

トムのような人はほかにいませんでした。彼は一滴の水を詩に変え、そこから音楽を生み出す才能を子供の頃に授かっていたのです。

───パティ・スミス
(『The New Yorker』誌2023年2月13日&20日号より)


脚注

※1:1973年、イースト・ヴィレッジのBowery 315にて開業。店名は“Country, BlueGrass, Blues”の頭文字に因む。パティ・スミスやラモーンズ、ブロンディ、トーキング・ヘッズらがホーム・グランドにしたことで「ニューヨーク・パンクの聖地」と呼ばれるようになる。

※2:1965年、ユニオン・スクエアに近いPark Avenue South 213にて開業。1970年夏にヴェルヴェット・アンダーグラウンドが出演し、聴衆がテレコで録った音源が『Live at Max’s Kansas City』として72年に発売されている。このクラブでのスケジュールを消化した直後にルー・リードが脱退を表明したため、同作はバンドの実質的なラスト・ライブを記録する1枚となった。