カル・グリーンのドラマチックな生涯 テキサス・ブルースから西海岸ジャズ・シーンへの道のり カル・グリーンのドラマチックな生涯 テキサス・ブルースから西海岸ジャズ・シーンへの道のり

カル・グリーンのドラマチックな生涯 
テキサス・ブルースから西海岸ジャズ・シーンへの道のり

レア・グルーヴの名盤『Trippin’ With Cal Green』ばかりが語られるカル・グリーン。そんな彼の知られざる生涯をご紹介。テキサス・ブルースからの出発、ハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズへの加入、西海岸ジャズ・シーンへの挑戦、第一線からの離脱──1人のギタリストのドラマチックな物語をお届けしよう。

文=久保木靖 Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images

人気R&Bグループでテキサス・スタイルのギターが炸裂

ジャズファンクの隠れ名盤として、一時コレクターズ・アイテムとなっていた『Trippin’ With Cal Green』……クールな楽曲と熱いギター・ソロはもちろんのこと、ダークな色彩感、ピッチやリズムの揺らぎからくる“ヘタウマ”感なども相まって、マニア垂涎の逸品だ(この1枚があるからここに選出されている!)。その男の出自がアグレッシブなテキサス・ブルースとくれば、ギター・ファンとして興味を持たずにいられようか!?

カル・グリーンは1935年(1937年説もあり)6月22日、テキサス州デイトン生まれ。一家はカルが3歳の時にヒューストンへ。母親が教会でギターを演奏していたこともあり、兄クラレンスとともに幼い頃からギターに親しんだ。その兄とともにバスに乗り込んでは、乗客からチップをもらうために演奏したこともあるという。

地元のブルース・スターをお手本にギターの腕を上達させると、T-ボーン・ウォーカー・スタイルを得意とする学友のロイ・ゲインズに対し、カルはゲイトマウス・ブラウンのアプローチを前面に出して、2人でバトルをくり広げていたというから、いやはや恐れ入る。

そんなカルの才能は地元で知れわたることとなり、1953年、わずか10代でクイン・キンブルやコニー・マック・ブッカーといったローカル・ブルースマンのレコーディングで起用された。

翌1954年には、「Annie Had A Baby」のヒットで勢いに乗るR&Bボーカル・グループ、ハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズが地元を訪れた際、徴兵されたギタリストのアーサー・ポーターに代わって参加。

このチャンスをモノにしたカルは正式メンバーとなり、「Open Up The Back Door」や「Tore Up Over You」で聴かれるように、ボーカル部分では大人しくコード・バッキングに徹する一方で、ソロになるとテキサス・スタイルで暴れてみせるという、ボーカル・グループにしては異色の味つけで貢献。

在籍中には、チャビー・チェッカーが1960年に大ヒットさせることになる「The Twist」(1959年)をハンクとともに作曲しているが、作曲クレジットからカルの名前が消えているのは、リリース前後にマリファナ所持で逮捕され、21ヵ月間刑務所に入っていたことが影響しているようだ。

その麻薬問題に先立つ1956年、ザ・ミッドナイターズでの活動で全国的に知られるようになったカルは、「I Can Hear My Baby Calling」と「The Search Is All Over」でシングル・デビューを果たしている。その後も時折リーダー・セッションが組まれるが、アイドルであるゲイトマウス・ブラウンや初期ジョニー・ギター・ワトソンらのスタイルを踏襲するギターはすこぶる元気がいい。中でも、インスト・チューン「The Big Push」(1958年)でのプレイはロックンロールをも凌駕するハイテンションで注目だ。

LAへ移住し、西海岸ジャズのスタイルを取り込む

麻薬問題で数年間を棒に振ったカルは、ザ・ミッドナイターズへ復帰するものの長続きはせず、キャリアは一時頓挫。この期間に、かねてより憧憬を抱いていたジャズを本格的に習得し、結果、ウェス・モンゴメリーやケニー・バレルといったジャズ・ギタリストの技法をベースとしたスタイルに変貌する。切れ味こそテキサス由来だが、かつてのブルース・スタイルとは潔いほどに共通点がないのが面白い。

こうして自らをアップデートしたカルはロサンゼルスへ移住し、西海岸のジャズ・シーンへ入り込んでいく。ジャック・マクダフ(org)の『Tobacco Road』(1967年)を経て、チャールズ・カイナード(org)の『Professor Soul』(1968年)で起用されるにいたって、カルのジャズファンク・スタイルは華々しく開花。この時期、ルー・ロウルズ(vo)やレイ・チャールズ(vo, p)らとの共演もあり、また、LAのスタジオでセッションマンとしても十分に生計を立てられるようになった。

この上り調子の時に制作されたのが、冒頭で触れた1stアルバム『Trippin’ With Cal Green』(1969年)だ。Mutt & Jeffというマイナー・レーベルに残されたこのアナログ盤の裏ジャケットには“このアルバムは「モンスター」というタイトルにすべきだ”とデカデカと書かれているが、確かに、直前に亡くなったウェスに敬意を表したようなオクターブ奏法が炸裂しつつも、どこかB級感が漂うというコテコテ感は、ある意味“怪物級”の逸品である。

Mutt & Jeffのレーベル・オーナー、ジョーイ・ジェファーソンの『The Joey Jefferson Band』(1975年)には幼馴染のロイ・ゲインズとともに参加したものの、リリース直前になってカルのパートが別のギタリストのプレイに差し替えられるという屈辱を味わった。これがきっかけというわけではないが、カルの第一線での活躍は激減していき、マーヴィン・ゲイの『Here, My Dear』(1978年)などわずかなセッション参加作はあるものの、基本的に1970年代後半は日雇い労働で生活していたという。

1980年代になると時折セッション仕事に顔を出すようになり、1988年には自身のルーツであるテキサス・ブルースに回帰した『White Pearl』をリリース。そして、2004年7月4日、カリフォルニア州レイクビューテラスの自宅にて、動脈瘤のため死去。69歳だった。

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