邦楽の“海外レコーディング”をふり返る 邦楽の“海外レコーディング”をふり返る

邦楽の“海外レコーディング”をふり返る

シティ・ポップという言葉とともに、70〜80年代の日本の音楽が再注目されるようになった昨今。特に、好景気に支えられ、海外レコーディングがトレンドになった80年代の音像は、現代でも評価が高い要因の1つだろう。

さらに現代では、技術の発展により、距離を超えたコラボレーションが容易となり、80年代当時と同様に海外ミュージシャンが参加した作品も増えてきた。

いつの時代も海外ミュージシャンの起用や彼らとのコラボレーションは、憧れの1つである。今回は、日本の音楽が海外の音楽業界とどのように接してきたのかを、その全盛期である80年代を軸足にふり返ってみよう。

文=金澤寿和 Photo by Boris Yaro/Los Angeles Times via Getty Images

海外ミュージシャンとの共演への憧れ

ネット環境の進化とこの3年のコロナ禍で、一気に広く浸透したファイル交換によるホーム・レコーディング。生演奏といっても、打ち込みのプリプロダクションを順に生楽器に差し替えていくパターンが多いのが現実だが、一方で国やエリア、スケジュールといった物理的障壁を軽く超越。希望するミュージシャンや憧れの相手と音源上で共演できる可能性は大きく広がった。

今になってふり返れば、70〜80年代は日本人アーティストによる海外レコーディングが盛んに行なわれていた時期である。初陣はGS周辺とされ、一説ではショーケンこと故・萩原健一が在籍したザ・テンプターズの69年作『THE TEMPTERS IN MEMPHIS』が最初とされる。

ライバルであるザ・タイガースも、同時期にロンドンで映画撮影を行なっており、グループ脱退直後の加橋かつみが『Paris 1969』を作った。これはビートルズやローリング・ストーンズとも縁の深いロンドン、R&B〜ソウルの一大拠点=メンフィスという、半ば聖地巡礼の意味合いが強く、その流れは70年代に入って赤い鳥や森山良子、五輪真弓らに引き継がれていく。

このような海外録音への憧憬は、当時の洋楽志向のアーティストならば常に胸中にあったはず。とりわけクロスオーバー/フュージョン隆盛を経た70年代末からは、セッション・ミュージシャンを注視する傾向が強くなり、“あのギタリストと組みたい”、“このドラマーと演りたい”などと現地へ赴くケースが急増した。

東京のスタジオ利用料が世界一高かった80年代

それと同様に、優れた音作りやハイ・レベルのスタジオ環境を求めて海外録音を選択するケースも増えた。設備的には日本のほうが高スペックだとしても、スタジオの音響特性やエンジニアの手腕など様々な要因が絡むうえ、最新レコーディング機材が必ずしもイイ音を生むとは限らない。加えて天候や湿度などでも、楽器の鳴りや響き方が変わってくる。まさに音楽はナマモノなのだ。そういった様々な理由から、個性的なサウンドを求めて世界各地からアーティストが集う、名所的スタジオも生まれるというわけだ。

そうした一方80年代頃からは、色々なビジネス的思惑も混入してきた。スタジオ使用料が高騰し、東京が世界で最も高価になってしまったのだ。だから長時間録音になると、渡航費や宿泊代を考慮しても海外へ出てしまったほうがリーズナブル、なんて時期があった。

また日本脱出でアーティストが多忙な日常から隔離され、創作に集中できる副産物も。例えば売れっ子なら、メディアやファンの好奇の目を避け、合宿のようなシチュエーションでリフレッシュ、なんてことも少なくなかった。

そしてそれがキャリアのどのタイミングでトライするかによって、話題提供や宣伝材料にもなり得た。AORが流行ればLA、アーバン・ファンクの隆盛が来ればニューヨーク、モダン・ポップが押し寄せればロンドン……と、各ジャンルの本場を訪れることは、アーティストのイメージ戦略に大きく寄与したのである。

このような事情が色々と絡み合って、海外レコーディングがある種トレンドなったのは80年代後半〜90年代初頭、バブル崩壊あたりまで。そして近年は最新テクノロジーの恩恵に預かって、ファイル交換によるダビング参加が当たり前になった。でもそうしたフェイス・トゥ・フェイスではない生演奏に、果たして化学反応が起きるのか? 楽器プレイヤー同士、息が合ったり阿吽の呼吸が可能なのか。スキルだけではない音楽の表現において、利便性の向上で失われるモノはないのか、海外レコーディング全盛期の作品に耳を傾け、ぜひ皆さんで検証してほしいと思っている。