三大キング随一の豪傑ブルースマン、アルバート・キングの生涯(前編) 三大キング随一の豪傑ブルースマン、アルバート・キングの生涯(前編)

三大キング随一の豪傑ブルースマン、アルバート・キングの生涯(前編)

毎週、1人のブルース・ギタリストに焦点を当てて深掘りしていく新連載『ブルース・ギター・ヒーローズ』。今週からアルバート・キングがスタート! まずは、頑固一徹のプレイ・スタイルを貫くこととなる巨人が、先輩格のB.Bキングに照準を合わせるところまでを見てみよう。

文=久保木靖 Photo by David Redfern/Redferns/Getty Images

右利き用ギターをそのままひっくり返して弾く豪快さ

 弦が切れればステージでの演奏中でも堂々と張り替える、音が気に入らないとアンプのつまみをすべて最大にする、靴を履き替えるようにバンドのメンバーを入れ替える、ズボンのウエストバンドには45口径のピストルが……とにかく豪快ネタには事欠かないアルバート・キング。

 プレイもとにかくシンプルかつダイナミックで、スティーヴィー・レイ・ヴォーンがデヴィッド・ボウイの「Let’s Dance」で見せたように、そのスタイルへ心酔するギタリストも数多い。テクニカル系ギタリストへのアンチテーゼではないが、そういったアルバートのプレイ、そして彼の音楽にはギタリストなら常にオープンマインドでいたいものだ──。


 アルバート・キング(本名Albert Nelson)は1923年4月25日、ミシシッピ州インディアノーラに生を受ける。一家は綿花プランテーションに携わる農家であり、アルバートは13人兄弟の中の1人だった。

 義父が教会でギターを弾いていたこともあり早い時期から音楽に親しんだが、彼が最初に手にした楽器はアメリカ南部の黒人の子供がよく玩具代わりにしていたディッドレイ・ボウという1弦楽器だったという(その後、シガー・ボックスと針金でギターを自作)。

アルバート・キング
Photo by Don Paulsen/Michael Ochs Archives/Getty Images

 1931年頃、一家がアーカンソー州フォレストシティへと引っ越すと、アルバートはその地でブラインド・レモン・ジェファーソンやロニー・ジョンソンといった当時のブルース・スターのレコードを熱心に聴いては、自作のギターと格闘しながら腕を磨いていった。

 そして18歳の時、道で出くわした男からギルド製アコースティック・ギターを1ドル25セントでせしめると──もちろんそれは右利き用だったのだが──、アルバートは左利き用に弦を張り替えるなんてことはせずに、そのままギターをひっくり返して弾き始めた。そう、のちのオーティス・ラッシュや(サーフ・ロックの)ディック・デイル、我が国では松崎しげるや甲斐よしひろと同様のスタイルはこの時、決定的になった。

 アルバートはのちにこう語っている。“右利きの人と同じようにコードを押さえられなかったから、私は歌うようなプレイに集中するようになったんだ”。なるほど、コード・バッキングをほとんどせず、シングル・ノートでとことん弾き倒すスタイルは、なにもB.B.キングを意識しただけではなかったということだ。

B.B.キングにあやかって、“キング”を名乗り始める

 1940年代当時、デルタ地帯に接していたアーカンソー州では、ロバート・ナイトホークやエルモア・ジェイムスといったブルースマンを生で観ることもでき、彼らに魅了されたアルバートはますますブルースへのめり込んでいく。

 質屋でエピフォンのエレクトリック・ギターを125ドルで買うと、アルバートはヤンシーズ・バンドというグループに参加。バンドのメンバーにコードやキーを教わり、やっと2〜3曲が弾けるようになったという。

 この頃、アルバートは建設工事現場でブルドーザーの運転手をして生計を立てていた。のちに“絶叫しない”滑らかな歌声と体重250ポンドという巨体から、“ヴェルヴェット・ブルドーザー”とも呼ばれるアルバートだが、その由来はここにもあったのかもしれない。

アルバート・キング
Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images

 1950年になると、アルバートはメンフィスとセントルイスの中間にあるオセオラという街で本格的なプロ活動へ没入していく。

 自分のバンド、イン・ザ・グルーヴ・ボーイズを結成すると、T-99というナイトクラブのハウスバンドの仕事を得た。後年アルバートは、“僕が弾けたのはファスト、スロー、ミディアムの3曲だけ。それをメンバーに教えて演奏したんだ。上手くいったよ(笑)”。のちのスタイルを鑑みると、これは冗談交じりの謙遜ではなく、真実であろう。

 そして、インディアナ州へ移ってハーモニー・キングスというゴスペル・カルテットでリード・テナーを歌ったのち、ジミー・リードやジョン・ブリムのバンドへ誘われるが、両者ともギタリストだったため、アルバートはなんとドラムを担当(リードの1953年の「You Don’t Have To Go」などの録音にも参加)。

 ……と、ギター以外でも仕事を得られるほどだったが、アルバートの眼差しは、1951年に「Three O’ Clock Blues」をヒットさせ、一躍ブルース・シーンのトップに躍り出たB.B.キングに向いていた。そのB.B.にあやかって“アルバート・キング”という芸名を名乗り始めたのはこの頃である。

 ブルース界で天下をとったB.B.のスタイルを参考に、アルバートはダイナミックなスクイーズ系チョーキングを導入して自分のスタイルを構築していく。ピックを使わずに親指で弾くが、これがちょっと鼻にかかったような独自の音色を作り出す効果を上げた。

 徐々に評判を高めていったアルバートは1953年、満を持してブルースの都シカゴへ乗り込むと、ウィリー・ディクソンの口利きによりParrotレーベルにて初リーダー・セッションを持った。

 その時録音された「Bad Luck Blues」や「Be On Your Merry Way」はデルタ・スタイルをエレクトリック化した当時の平均的なシカゴ・スタイルで、そこそこの売り上げを記録。しかし、手にした金はわずかだったようで、アルバートは失意を胸に、翌年にはオセオラに戻ってしまう。

 (後編へ続く)