2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。
文=田中 稔
第15回
永遠のライバルだった『Player』と『Guitar magazine』
前回は、70年代から80年代に発刊されていた日本の音楽雑誌について紹介したが、今回はそれらの中で『Player』の競合誌としてライバル視されていた『Guitar Magazine』との関係について紹介しよう。
『Player』と『Guitar Magazine』とは、常にライバル関係にあった。それは1980年に『Guitar magazine』が誕生して以来、2023年に『Player』が休刊するまでの43年間その関係は変わることがなく、お互いが相手の雑誌を意識しながら編集内容を決めていた(ように思う)。ほかにも数十の音楽雑誌が存在していたが、『Player』編集部が特別に意識していたのは、常に『Guitar magazine』だった。これは、単なる競合誌というだけではなく、『Player』と『Guitar magazine』の誕生の成り立ちが大きく関係している。
1968年に『The Young Mates Music』という名称でスタートした『Player』は、1975年春に『Player』(しばらくの間は『The Young Mates Music Player』その後『Y.M.M. Player』)という名称に変更された。実はこの変更は、プレイヤー・コーポレーションが誕生した際に、雑誌の内容を大幅にリニューアルしており、それに伴うものだった。編集部と関連会社である神田商会企画室長の奈良史樹氏が、当時アメリカで発刊されていた『Guitar Player』をリスペクトしており、『Player』をこの雑誌のコンセプトに近づけたい、という思惑があった。
『Guitar Player』は、1967年にアメリカでGPI社によって創刊された世界で最も古いギター専門雑誌で、70年代のギター・シーンにおいて、すでに定評があった(2024年10月15日発行の12月号をもって紙媒体での発行を終了しオンライン版に移行)。音楽ジャンルにこだわるのではなく、ロックからフォーク、カントリー、ブルーグラス、ジャズ、クラシックなどあらゆるジャンルのギタリストをカバーし、インタビューや機材の紹介、新製品紹介、楽器特集、ギター・レッスンにいたるまで、プロフェッショナルな視点で記事が構成されていた。
当時、日本の雑誌はボーカリストなどフロントマンのインタビューやピンナップが中心で、ギタリストが使用する機材や楽器に関するマニアックな内容はほとんど掲載されていなかった。また『Guitar Player』の連載コラムや講座は、最前線の人気ギタリストが担当するなど、まさしく“ギタリストによるギタリストのための雑誌”として定評があった。
『Guitar Player』の編集コンセプトをリスペクトしていたプレイヤー編集部と奈良氏が中心となり、雑誌の名称を『Player』に変更することで新たな雑誌作りを目指したのである(第三種郵便登録上の都合で、しばらくの間『The Young Mates Music』という名称も小さく掲載していた)。
当時の編集部と奈良氏は、70年代前半に『Guitar Player』の発売元であるGPIと編集部にコンタクトを取り、75年から記事の一部を『Player』に二次使用させてもらえるお願いをした。さらに、当時『Guitar Player』の外部スタッフとして活躍していたライター/インタビュアーのジョン・スティックやスティーヴン・ローゼン、有名ギタリストとも親しかったフォトグラファーのニール・ゾロゾワーといった関係者を紹介してくれるなど、『Player』の再出発に大きな力を貸してくれた。以来アメリカの最前線で活躍するギタリストの最新インタビューや記事が『Player』で紹介できるようになり、さらにプレイヤー別冊『楽器の本 1976』の大成功ともタイミングが重なり、70年代半ばから『Player』の快進撃が始まったのである。
『楽器の本 1976』においては、当時サンフランシスコ郊外にあった『Guitar Player』の編集部を取材し、いち早く雑誌の存在を日本に紹介している。
そんな『Player』の急成長を見ていたリットーミュージックは、やはり『Guitar Player』に強い関心を抱き、そのコンセプトに80年代の音楽雑誌のあり方を見出していた。そして、70年代末に『Guitar magazine』を創刊するにあたり『Guitar Player』の発売元であるGPIと独占契約を交わし、誌面で『Guitar Player』の記事を掲載する権利を取得した。『Guitar magazine』創刊号の表紙には『Guitar Player』の記事を転載している旨を表記し、新刊の大きなセールス・ポイントとしてアピールした。これにより、『Player』ではそれ以降『Guitar Player』記事の転載が困難となり、『Guitar Player』との関係にピリオドが打たれた。
雑誌の大黒柱を失うという大きな痛手を受けた『Player』だったが、当時すでにコンタクトを取っていた『Guitar Player』の外部スタッフたちに新たな協力を求めることにした。それまでのように記事の二次使用ではなく、『Player』用に新たな取材を依頼しオリジナルの記事を制作することで新たな方向性を打ち出すことにした。これにより、『Player』の海外取材がスタートしたのである。そういう意味では、リットーミュージックから与えられた試練がさらに『Player』を力強い雑誌に鍛えてくれたとも言える。一度は軌道修正を余儀なくされた『Player』だったが、快進撃の第二弾は80年代へと続いていった‥‥。
『Player』が急成長を遂げた70~80年代の音楽シーン、楽器シーンに関しては大方紹介したので、次回からは私が『Player』に関わるようになった1975年当時の話を紹介しよう。私が大学を卒業してプレイヤー・コーポレーションのドアを叩いた頃、『Player』はまだマイナーな雑誌で、書店ではなく楽器店の店頭で細々と販売されていた……。


プロフィール
田中 稔(たなか・みのる)
1952年、東京生まれ。1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。現在フリーランスの編集者として活動中。アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。