連載:『Player』盛衰記 第17回|エレキギターのことなど、何も知らない…… 連載:『Player』盛衰記 第17回|エレキギターのことなど、何も知らない……

連載:『Player』盛衰記 第17回|エレキギターのことなど、何も知らない……

2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。

文=田中 稔

第17回
エレキギターのことなど、何も知らない……

プレイヤーのオフィスは、西新宿にある小さな9階建てマンションの最上階にあった。現在ではかなり古いビルだが、55年前はまだ新築のマンションで、プレイヤー・コーポレーションと赤星スタジオがその9階フロアを全て使用していた。

オフィスといっても住居用マンションをリノベーションしたものだが、当時周囲には9階を越える高い建物はなく、とても見晴らしが良かった。屋上に上がると4~500m先に野村ビルや京王プラザホテルが見え、晴れた日には遠く富士山も見えた。

面接の当日、着慣れないスーツ姿で西新宿のプレイヤー・コーポレーションに向かった。新宿駅西口から斜めに大久保の方向に10分ほど歩いたところに、プレイヤーが入っていると思われる9階建てのビルがあった。自分がイメージしていたよりだいぶ小さな建物で、特に看板などもなかったが、エントランスの郵便受けに小さく“Player”と書かれていた。

奥のエレベーターで9階に上がり、深呼吸をしてからドアをノックすると、電話で対応してくれた女性が出てきて中へ案内された。オフィスはいくつかの部屋に分かれていて、4~5人のスタッフが黙ってデスクに向かっていた。案内をしてくれた女性は30代半ばくらいで、山中(多賀子)さんと呼ばれていたが、それは旧姓で、赤星先生の奥さんだったことを入社後しばらくしてから知った。

奥の小さな会議室に通され、山中さんと対面で面接が行なわれた。彼女は私の履歴書に目を通しながら矢継ぎ早にいくつか質問をしてきたが、内容はまったく覚えていない。10分ほど面接したあとに“……アルバイトにはいつから来られますか?”と聞かれ、“いつでもいいです……”と答えると、“では来月からお願いします。来週北の丸公園の科学技術館で『楽器フェア』という楽器業界の大きなイベントがあるので、それを必ず観に行って下さい”と言われ、面接はあっという間に終了した。どうにかプレイヤーでアルバイトができることになったようだ……。

Playerの表紙
私が入社した時にこの12月号の制作を行なっていた。生まれて初めて見た色校正は竹田和夫(クリエイション)のカバーだった。
Playerの表4(グレコの広告)
12月号の表4はグレコの広告だった。フェリックス・パパラルディの写真はとにかくインパクトがあり、誰しもが憧れた。

面接の際に言われた『75 楽器フェア』を観に行った。会場の科学技術館には様々なブランドのギターやベース、キーボード、ドラム、電子楽器、管楽器、小物、楽譜などがところ狭しと展示されていた。自分はギターが大好きなので多少はギターに関する知識もあるつもりだったが、見たことも聞いたこともないギター・ブランドが山のようにあり、“こんなにギターって色んなブランドがあるんだ……”と驚いた。

その時はまったく気づかなかったが、先日『75 楽器フェア』に関して調べていたら、当時のポスターを発見した。そのポスターは、なんと上半身裸の若い女性がポーズをとっているという大胆なデザインで、昭和とはこんなハレンチなポスターを堂々と貼ることが許されていたおおらかな時代だったことに改めて驚いた(笑)。あとから知ったことだが、赤星スタジオは『楽器フェア』の実行委員会のメンバーで、山中さんがその仕事を担当していた。

翌月からプレイヤー・コーポレーションでアルバイトが始まった。当時いくつかの雑誌は読んでいたが、正直あまり読書の趣味はなく、文章などは大学の卒業論文くらいしか書いたことがない。そんな自分が音楽雑誌の出版社に就職をして、本当に務まるのか……。ギターを弾くことは大好きだが、エレキギターのことなど何も知らない……。出社するまでの半月の間に、『Player』のバックナンバーを何冊か読んでみたが、読めば読むほど自分は楽器と音楽の知識がないことを知り、不安で胸がいっぱいになった。

次回は、当時のプレイヤー・スタッフや会社の状況について紹介したい。

著者プロフィール

田中 稔(たなか・みのる)

1952年、東京生まれ。

1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。

以後はフリーランスの編集者として活動し、2025年4月、クラプトンに魅せられた10人のE.C.マニアのクラプトン愛を綴った『NO ERIC, NO LIFE. エリックに捧げた僕らの人生.』(リットーミュージック発刊)を制作。2025年9月、電子マガジン「bhodhit magazine(バディットマガジン)」の名誉編集長に就任。

アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。

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『Player』盛衰記