2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。
文=田中 稔
第20回
代表取締役:赤星建彦
『Player』の前身である『The Young Mates Music』は、赤星ミュージカル・スタジオによって1968年5月に創刊された。その後、1975年に神田商会の出資を受け、赤星スタジオと神田商会とで株式会社プレイヤー・コーポレーションが設立され、それに伴い雑誌名が『The Young Mates Music Player』に変更された。
プレイヤー・コーポレーションは私が入社した1年近く前に設立されたばかりで、当時はあらゆる面で赤星スタジオの体質を受け継いでいた。もちろん会社の所在地や制作スタッフも全て赤星スタジオ時代と同様で、代表取締役社長は赤星建彦だった。
赤星先生は独学で作曲・編曲などを習得した音楽家で、それまでに日劇小劇場の音楽監督、日本グラモフォン株式会社ポリドールレコード専属作曲家などを経て様々な音楽活動を行ない、個性的なオリジナル・アルバムや作品を数多く制作していた。社内では“社長”ではなく“先生”と呼ばれ、一日中プレイヤーのオフィスにいることはあまりなかった。
70年代以降は、障がい者や高齢者の身体的、精神的リハビリテーションを目的とした療育音楽と音楽療法の研究と実践を行ない、その分野では広く知られる第一人者でもあった。1977年に「公益財団法人東京ミュージック・ボランティア協会」を設立し、80年代半ば以降は療育音楽指導者養成を行なうなど、日本は元より海外でもボランティア活動を続けた人物でもある。
赤星先生は多角的に仕事をしていたが、二番煎じを嫌い、常に誰もやっていない新たな分野を切り拓いていくことに情熱を燃やしていた。楽器業界をベースとした『Player』の発刊はもちろんのこと、ニッポン放送における深夜ラジオ音楽番組の制作運営(「オールナイトニッポン」の前身)、療育音楽と音楽療法の研究と実践なども、これまで誰も行なってこなかった新たな分野への挑戦だった。それらの事業がある程度見通しがつくと、また新たな分野へと興味が移っていくことが多かった。
第二次世界大戦には音楽隊として参加した経験も持ち、戦前生まれの日本男子らしく常に自分にも他人にも厳しく、精力的にキビキビと仕事をこなしていた。かなり短気でストレートな性格のため、モタモタしている人を見ると声を荒立てて怒鳴ることもたびたび。私もずいぶん怒鳴られた。せっかちな性格なので、いつも早足でさっさと歩いていたのをよく覚えている。自分の父親も無口で短気な性格だったので、その手の人にはかなり免疫力がある方だと思うが、あの頃は“親父より怖い……”と感じていた。
赤星先生は、音楽活動の一環として楽器の普及にも力を注いでいた。ドラム・メソッドの制作を始め、エレキ・ギター、エレキ・ベース、バンジョー、オカリナなど、様々な楽器の音源付き教則本を発案し、楽器業界との交流も深く業界でも知られた存在だった。そういう流れもあって『Y.M.M.』は、当初、楽器の販売促進を目指した媒体として企画され、販売チャンネルも楽器卸関連のルートがメインだった。そういう意味でも、『Player』は一般の音楽雑誌とはスタンスが異なっていた。
60~70年代は日本でも楽器の教則本が発売されていたが、当時は音源が付いていなかった。そんな時代に赤星先生は、ソノシート(プラスティックの簡易レコード)やカセットテープといった音源を付属した新たな教材を製作し、時代を先取りした企画を成功させた。神田商会と制作した『成毛滋 グレコ・ロックギター・メソッド』(1973年 製作:赤星ミュージカル・スタジオ)もその1つである。
まだロック系の教材が乏しかった時代に、英国でロック・ギターの神髄をマスターした成毛滋氏の協力のもと、カセット音源を付属したギター・メソッドを完成させ、エレキ・ギターの普及に大いに貢献した。70年代はこのメソッドでギターをマスターしたギタリストが多く、その存在は今でも伝説として語られている。
そのほかにも、ヤマハから発売された障がい者用の電子パーカッションの企画/開発/製作など、赤星先生は常に『Player』とは別に独自な活動を続けていた。




著者プロフィール
田中 稔(たなか・みのる)
1952年、東京生まれ。
1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。
以後はフリーランスの編集者として活動し、2025年4月、クラプトンに魅せられた10人のE.C.マニアのクラプトン愛を綴った『NO ERIC, NO LIFE. エリックに捧げた僕らの人生.』(リットーミュージック発刊)を制作。2025年9月、電子マガジン「bhodhit magazine(バディットマガジン)」の名誉編集長に就任。
アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。