2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。
文=田中 稔
第22回
広告営業部長/2代目代表取締役社長:島田伸一
私がプレイヤー・コーポレーションに入社したのが1975年11月、それから2ヵ月ほどしてプレイヤーに入社した人物がいた。のちに2代目の代表取締役社長となった島田伸一さんである。島田さんは私が入社した頃からすでにプレイヤーに入社することが内定していたようだが、会社に勤務するようになったのは年が明けた76年1月だったように記憶している。楽器業界における長年のキャリアを重んじて広告営業部長という肩書だった。
島田さんは、それまで楽器業界の業界誌『ミュージックトレード』を発刊するミュージックトレード社に勤務していた。出版業務に関してかなり熟知しており、また広告営業に関しても大ベテランで、当時20代前半のスタッフしかいなかったプレイヤーにとっては頼りになる存在だった。島田さんなくして、プレイヤーの70年代後半~80年代の急成長はありえなかっただろう。彼は山中さんより10歳上で、私とはちょうど20歳違い。入社当時は42歳前後だったが、優しいお父さん的な存在で社員からも慕われていた。
当時のプレイヤー・スタッフは、赤星先生、山中さん、河島編集長も含め、誰一人としてそれまで出版社に勤務した経験がなかった。編集や入稿作業は先輩のやり方をそのまま受け継ぐことが多く、よくわからないところは自己流でやっていた。島田さんは出版や印刷関連の業務に関しても熟知していて、改めて彼から基本的なやり方を教わることもあった。
島田さんはミュージックトレード社時代に、営業マンとしての経験も豊富だった。楽器業界の専門誌に長年携わっていたため、大手メーカーから小さな小売店にいたるまで幅広い知識を持っており、各会社の歴史や取扱商品、さらには窓口や担当者との交流があった。私はギターのことであれば多少の知識はあったが、島田さんは弦楽器に限らず、打楽器、鍵盤楽器、電子楽器、管楽器、クラシック楽器、教育楽器、輸入代理店、パーツ・メーカーなど、楽器業界全般に関して知識があり、自分が分からないことを聞くと、いつも丁寧に教えてくれた。これは当初の『Player』にとって大きな糧となった。
彼は江戸っ子気質が強く、とても気っ風が良い。外出先でおいしそうなスイーツなどを見つけると、大きな手提げ袋で会社にお土産を買ってくることがしばしばあった。本人も甘いものが好物だったこともあり、ケーキやクッキー、ドーナッツ、パン、押し寿司、お稲荷さん、アイスクリーム、たい焼き、どら焼き、たこ焼き、お団子、お饅頭、石焼き芋などを買ってきては、“これがうまいんだよ~!”と嬉しそうな顔でみんなにご馳走してくれた。そんな時は、締め切り前であってもみんな仕事の手を休めてお土産のスイーツを頬張り、しばしのスイーツ・タイムを満喫した。手土産は社内だけではなく、久しぶりに訪問するクライアントなどにもよく自腹で買って行った。
また彼はとても食通で、おいしいお店や名店をよく知っていた。締め切りがひと段落した頃、“銀座に美味い洋食屋があるんだよ。今度行かない?”と言って都合のつく社員を何人か引き連れて、会社帰りに食事に行くこともあった。当時は安月給だったこともあり、銀座の名店で食事をすることなど誰も経験がなく、それは嬉しいサプライズだった。年に何度か食事をご馳走してくれたが、その経費はすべて島田さんの自腹で、経費として落とすことはしなかった。時には銀座の「たいめいけん」や「銀座アスター」、新宿の水炊きの名店「玄海」、水道橋の「かつ吉」、渋谷のロシア料理店「ロゴスキー」、しゃぶしゃぶの「瀬里奈」、焼肉の「叙々苑」など、いろいろな名店に連れて行ってくれた。見たことも味わったこともないおいしい料理と島田さんの優しさは、50年近く経った今もよく覚えている。
島田さんは入社当初から、プレイヤーをもっと利益の出る会社、一般的な給料が支給できる会社にしたいと考えていた。そして、それには広告収入を増やすことが必須だと考えた。当時の『Player』の広告クライアントは、表4がグレコ・ギター、表2がパール・ドラム、表3がエーストーン・アンプ。その他、ローランド、ギブソン、フェンダー、アリア、グヤトーン、エルク楽器、トンボ、トーカイ、ブギー、GHSストリングス、ゼンオン、テスコ、サム、ピアレス、シュアーなどだが、広告掲載料は極めて安く、中にはサービスで掲載している広告もあった。
そんな状況を打破するには、ヤマハの広告を掲載する必要があった。当時の楽器業界においてヤマハの存在は極めて大きく、ほとんどの音楽雑誌の表4はヤマハと決まっていた。ヤマハの広告が掲載されていない雑誌は、いわばその存在が認められていないようなもので、評価に値しなかった。そういう意味でもまずヤマハを口説くことを考えた。
そして、島田さんはそれまで交流があったヤマハ広報部の担当者を訪ね、『Player』にぜひとも広告出稿をしてほしい旨を熱く語った。本人としては、業界誌時代の付き合いもあったのでどうにか上手くいくのではないかと思っていたが、残念な結果となった。彼は“ヤマハに断られた時に、初めて当時『Player』がかなり厳しい状況だったことを知らされたよ”と、あとになって何度も語っていた。
赤星先生はヤマハの知り合いも多く、『The Young Mates Music』時代はヤマハでも雑誌を取り扱ってもらったが、プレイヤー・コーポレーションになって以降はその関係も変わっていった。当時の『Player』は、業界内で神田商会の雑誌であるというイメージが強く、神田商会と営業的な付き合いがないクライアントには、なかなか相手にしてもらえなかった。
しかし、当時の神田商会は『Player』の卸業務を行なってはいたが(プリマ楽器、テイハツなども行なっていた)、私が知る限り編集内容に関して神田商会から何らかの調整が入ったり、広告クライアント以外の楽器の記事に関してクレームがくるようなことはなく、自由な環境の中で編集作業を進めていた。それだけに島田さんとしては、本誌の編集内容を理解する以前に拒否されたことに大きなショックを受けると同時に、いつかヤマハがクライアントになってくれるような、もっと魅力的な雑誌に成長することを目標として頑張る覚悟を決めた。



著者プロフィール
田中 稔(たなか・みのる)
1952年、東京生まれ。
1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。
以後はフリーランスの編集者として活動し、2025年4月、クラプトンに魅せられた10人のE.C.マニアのクラプトン愛を綴った『NO ERIC, NO LIFE. エリックに捧げた僕らの人生.』(リットーミュージック発刊)を制作。2025年9月、電子マガジン「bhodhit magazine(バディットマガジン)」の名誉編集長に就任。
アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。