連載:『Player』盛衰記 第25回|広告から見た『Player』1975年12月号 連載:『Player』盛衰記 第25回|広告から見た『Player』1975年12月号

連載:『Player』盛衰記 第25回|広告から見た『Player』1975年12月号

2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。

文=田中 稔

第25回
広告から見た『Player』1975年12月号

 『Player』は、昔から“広告が多い”と言われてきた。一時は“記事より広告のほうが多いんじゃないの?”と皮肉を言われることも度々あった。たしかに、1970年代後半から2000年代前半までの『Player』は、そう言われても仕方がないほど多くの広告が掲載されていたことは事実だ。しかし、300ページを優に超える雑誌の製作には、用紙、印刷、製本、納品などに莫大な経費がかかる。また、80年代から00年台までほとんど本体価格の改正をすることなく、どんどんボリュームアップと編集内容の充実に力を注いできた。だがそれは、クライアントありきという前提で成り立つことであって、常に広告収入をベースに経営を考えていたことは間違いない。

 この体質は、私が入社した70年代半ばから始まったわけではない。1968年に『The Young Mates Music』が誕生した時から、本誌の売り上げよりも広告収入ありきで雑誌作りのベースを考える傾向があった。

 では、私が入社した70年代半ばの『Player』には、どのような広告が掲載されていたのだろう。『Player』の前身となる『The Young Mates Music』がタブロイド判の新聞形式からA4判の雑誌形式に移行したのが1970年代初頭、その時から表4のクライアントは神田商会だった。第22回のコラムでも書いたように、70年代以降音楽雑誌の表4広告は圧倒的にヤマハが多かったが、『Player』の表4には常にグレコの広告が掲載されていた。

 1975年12月号の表4は、マウンテンのベーシスト、ボーカリスト、プロデューサーとして知られるフェリックス・パパラルディが、グレコのSGスタイルのベースを弾いている写真が大きく掲載されている。70年代の音楽雑誌の広告は、製品写真と短いコピーのみというシンプルなものがほとんどだったが、グレコはいつも一捻りした人の温もりを感じる広告が多かった。しかも、パパラルディのように世界的な大物アーティストを起用した広告はそれまでに前例がなく、ギター・ユーザーにグレコの存在感を大いにアピールしたことは間違いない。この広告は、当時企画室長だった奈良史樹さんが制作した。

 表2のクライアントはローランド。ローランドの創業は1972年なので、当時はまだ創業から数年しか経過していないが、すでにメジャー感のあるカラー広告を掲載していた。内容はシンセサイザーではなく、当時の最新技術を活かしたレボ・サウンドシステムで、いかにもローランドらしい製品である。

『Player』の表4画像
︎表4はフェリックス・パパラルディがグレコ720を弾いている写真が使用され、ロック・ファンの大きな話題となった。グレコは当時から一味違う内容の広告が多かった。
『Player』の表2画像
︎表2はローランドの広告で、新製品だったレボ・サウンドシステムを掲載。専用の電子回路を採用し、電子楽器のサウンドをより厚みのあるものにグレードアップする音響システムとして登場した。

 そして表3は星野楽器のドラム・ブランド、TAMA。コモドアーズのステージ・セットを紹介した内容だが、当時から星野楽器はミュージシャンとの関連性をアピールした広告が多かった。

 『The Young Mates Music』時代の表4はやはりグレコ・ギターだが、表2は長年パール・ドラムが掲載され、表3はエース電子や日本ハモンドなどが掲載されていた。

 そのほか本文中にある広告は、すべてモノクロ。1ページ広告だと、フェンダー(山野楽器)、オベーション(荒井貿易/神田商会)、エルク、ハモンド(日本ハモンド)、シュアー(神田商会)、グヤトーン(東京サウンド)、パール・ドラム(パール楽器製造)、サム(テイハツ)、エルク楽器などが毎月レギュラーで掲載されていた。

 70年代末までの広告は基本的にメーカーを対象としており、小売店は掲載しないという営業方針があった。いつも表3の対向ページに掲載されていた“エルク楽器”は一見メーカーのように見えるが、実は当時新宿区番衆町にあった“ミュージックランドKEY”が出稿した広告である。当時はお店の広告を受け付けていなかったため、あえて“エルク楽器卸部”というメーカー広告として掲載していた。

『Player』の表3画像
︎表3はTAMAドラム、ステージマスター5の広告。当時から星野楽器ではアーティストとの関連性をアピールした広告が多く採用されていた。
『Player』の表3対向ページの画像
︎表3の対向ページに毎回掲載されていたエルク楽器。タイトルに“エルク楽器卸部”とあるが、新宿の“ミュージックランドKEY”がエルク楽器として出稿していた広告。1970年代初頭から約50年間掲載された。

 そのほか、1/2ページや1/4ページの広告は、ギブソン・カタログ(神田商会)、ヴィンチ・ストリングス(野中貿易)、ゼンオン(全音楽譜出版社)、トンボ・ハーモニカ(トンボ楽器製作所)、トーカイ(東海楽器)、プリマ(プリマ楽器)、ピアレス(ピアレス楽器社)などがあり、今見ると手作り感満載の昭和ならではのデザインばかりである。

『Player』の1/4広告ページの画像
︎当時は横長の1/4ページという広告スペースがあった。トンボ楽器、東海楽器、プリマ楽器、ピアレス楽器社などアコースティック楽器の広告もレギュラーで掲載されていた。

 当時の楽器業界は、広告専任の担当者がいる会社は少なく、担当者は別の仕事と兼任しているところがほとんどだった。また、制作のスキルや制作費の面でもかなり厳しい状況にあり、出版社にお任せというクライアントも少なくなかった。当時、広告代理店はあったが、マージンの関係で出版社と直接契約を望むクライアントが多く、当時の広告代理店の営業マンはなかなか大変な思いをしていた。

 広告が多いと定評のある『Player』だが、広告が大幅に増えていったのは70年代後半からで、70年代半ばまではレギュラー広告1つ取るのもかなり苦労をしていて、常に新たなクライアント探しに躍起になっていた。

 次回は、そんな『Player』が急成長を遂げた大きなきっかけとなった『楽器の本 1976』に関して紹介しよう。

著者プロフィール

田中 稔(たなか・みのる)

1952年、東京生まれ。

1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。

以後はフリーランスの編集者として活動し、2025年4月、クラプトンに魅せられた10人のE.C.マニアのクラプトン愛を綴った『NO ERIC, NO LIFE. エリックに捧げた僕らの人生.』(リットーミュージック発刊)を制作。2025年9月、電子マガジン「bhodhit magazine(バディットマガジン)」の名誉編集長に就任。

アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。

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『Player』盛衰記