Interview | 和田アキラ(PRISM)デビュー作を語った2017年のインタビュー Interview | 和田アキラ(PRISM)デビュー作を語った2017年のインタビュー

Interview | 和田アキラ(PRISM)
デビュー作を語った2017年のインタビュー

PRISMでの活動をライフワークとし、日本のインストゥルメンタル・ミュージック界を強く長く牽引してきた和田アキラが、2021年3月28日に永眠した。追悼の意を込め、ギター・マガジン2017年10月号の特集記事『日本が誇る伝説のフュージョンBIG5』に掲載した彼のインタビューを、一部再編集して公開する。話題の中心は1977年に発表されたPRISMのデビュー・アルバム『PRISM』のこと。ジャパニーズ・フュージョンの金字塔ともなったこの名作は、このインタビューの時点でリリースから40年が経過していた。

取材・文=近藤正義 上写真=山川哲矢

当時はロック・ファンからはジャズみたいって言われて、ジャズ・ファンからはロックみたいとか言われてたんだ。
そんなことで論争していたなんて、今考えるとおもしろいよね。

──和田アキラ

その場でアイディアを出し合う、
ヘッドアレンジが主流だったんだ。

まず、PRISMの結成前夜について聞かせて下さい。

 1970年代の中頃だね。ミュージック・シーンにクロスオーバーの波が押し寄せてきて、インストに夢中になったんだ。そこで、自分でもインストのバンドをやろうと思って結成したのがPRISM。最初は桜井っていう同級生のベーシストと始めて、そこから友人の紹介で、ジャズをやっていて、しかもフェンダーのエレピを持っているという久米大作を引き込んだ。やっぱりインストをやるにはうまいキーボードが欲しいからね。最初はチック・コリアの、リターン・トゥ・フォーエバーなんかをコピーしていた。もうひとりのキーボードにはジョン山崎がいたこともあったけど、最終的にはオルガンのうまい奴ということで伊藤幸毅に落ち着いたんだ。ツイン・キーボードっていうのも当時は斬新だったね。そしてドラムに鈴木リカ、ベースに渡辺建ちゃんが入ってメンバーがそろった。最後に、たびたびセッションで交流のあった森園勝敏がレコーディングを始める頃に加入したというわけ。

インストをやろうというミュージシャンは、まわりにたくさんいましたか?

 いや、みんな歌モノをやっていて、インストをやろうなんてヤツはいなかったよ。レコード会社もそんな音楽は売れないと思っていたしね。

バンド名のPRISMはデビュー前から使っていたのですか?

 ポリドールのディレクターでプロデューサーだった吉成(伸幸)さんという人が決めたんだよ。モリ(森園)を入れようって提案も吉成さんからだった。あ、そうそう、その前年の1976年、来日したエリック・クラプトンの前座をやらせてもらったのも、レコード会社がポリドールで一緒だったから(笑)。

森園さんとのツイン・ギターはいかがでしたか?

 何も問題はなかったよ。モリはあの時点で、すでにもう経験豊かなプロだったしね。スタジオ盤だとギター・パートを自分で重ねちゃうこともあるけど、『1977 Live at Sugino Kodo』を聴いてもらえれば、僕たちがどんな風にパート分けしていたか、よくわかると思うよ。

デビュー・アルバムの収録曲は以前からあったレパートリーなのですか?

 いや、アルバム・デビューするからっていうことで、急遽作ったんだよ。ほかのメンバーが曲を作ってこなかったから、結果的に全部僕の曲になったけど、意図したわけではなかったんだ。用意した曲はこれで全部。あと、シングル「LOVE ME」のB面に収録された「OUT OF BLUE」があるだけ。アレンジはバンド全員でやってたね。あの頃はみんなに簡単な譜面を渡して、その場でアイデアを出し合って決めていく、いわゆるヘッド・アレンジが主流だったんだ。

「OUT OF BLUE」は森園さんの曲ですね。

 いや、あれも僕の曲なんだけど、発売された時のクレジットを見たらなぜかモリ(森園)になってた(笑)。

A面とB面でソフト・サイドとハード・サイドに分けた理由は?

 それは僕のアイディア。アナログのレコードはA面とB面があったから、ソフト・サイドとハード・サイドに分けたほうが聴きやすいかな、と思ってね。ソフトなA面は、ギタリスト仲間から“親と一緒に聴けるレコード”なんて感想をもらったよ(笑)。

このアルバムは発売と同時に大反響でしたね

 初回プレスが8000枚で、それが発売日の午前中で全部売り切れたみたい。結局2回目のプレスが出るまで、その後1ヵ月くらいかかった。そんなに売れるとは思わなかったんだろうね。

当時流行っていた音楽がアルバム制作にも影響を及ぼしましたか?

 ラリー・カールトン、リー・リトナー、クルセイダーズ、スタッフあたりかな。「DANCING MOON」でサックスを入れたのは僕のアイディアなんだけど、当時クロスオーバーのジャンルではサックスが入る曲が多かったからね。「LOVE ME」に女性ボーカルを入れたのも、当時そういうのがよくあったから。インストの曲ばかりの中に1~2曲くらい女性ボーカルが入ってるといい感じでしょ? この2年後にはクルセイダーズがランディ・クロフォードとの「Street Life」を発表してたしね。

今このアルバムを聴き直してみて、改めて感じることは?

 音楽理論的に間違ったことをやっちゃってる箇所もあるし、決して完璧ではなかった。でも、僕の音楽活動のすべてが40年前にこのアルバムから始まったわけだから、なかなか感慨深いモノがありますね。当時はロック・ファンからはジャズみたいだって言われて、ジャズ・ファンからはロックみたいだとか言われてたんだ。そんなことで論争していたなんて、今考えるとおもしろいよね。

70年代の初期までの音楽は、ジャンルが全部ごった煮だったんだ。

和田さんはとても早い時期からプロ・ギタリストになろうと決めていたんですよね。

 音楽に関しては早熟な子供だったね。小学校の帰りに銀座で寄り道して楽器屋を見てまわったり、当時流行っていたグループサウンズのライブを観たりしていたよ。最初はドラムをやってたんだけど、14歳くらいから本格的にギターを弾き始めたんだ。レコードに合わせて真似していたらけっこう弾けるようになるので、意外と自分には才能があるのかなあ……なんて思ってたね(笑)。70年代の始め頃はロックならなんでも聴いていた。その頃からなんとなくプロのギタリストになりたいと思っていたんだけど、そんなものはカタギの職業だとまだ認められていない時代でしょ(笑)? どうしたらいいのかわからなかったし、とりあえずこの世界に入るツテがほしかった。そんな時に知り合いから紹介されたのがギタリストの松木恒秀さん。16歳で松木さんのボーヤになって1年くらいお世話になってた。

よろしければ、松木さんとの思い出を教えて下さい。

 僕は1年くらいしかいなかったけど、いろんなことを教わった。“もっとブルースを聴け”と言ってB.B.キングのレコードやブルースに関する本を貸してくださったり。音楽のルーツを聴く、ということを学んだよ。松木さんについて最初の頃に、朱里エイコさんのツアーの時、公演前の楽器セット後に僕がギターを弾いているのを聴いて「お前けっこういろいろ弾けるんだな」と言ってくれて、そんな時に演奏力を多少なりとも認めてもらえたのかどうかわからないけど、のちに大阪ガスの仕事で松木さんと一緒にギターを弾かせていただいたこともあったし、仕事の空き時間には一緒にセッションもよくやってくれた。もしかしたら、この世界で生きていけるかもしれない……と思った出来事だったよ。

松木さんといえば、スタジオの仕事の最中にエンジニアと喧嘩して帰ってしまう事件は有名ですよね。

 あ、よく言う “焼きそば事件” ね(笑)。音を硬くしろとか柔らかくしろとか指示されて頭にくるってヤツだよね。1回くらいしかなかったかな。僕の前のボーヤの時は何度もあったらしいよ(笑)。

松木さんのもとを離れてからも連絡は取り合っていたのですか?

 プロとしてデビューして松木さんとお会いすることが少なくなってからも、何かと連絡を取っていましたし、可愛がってもらったんだと思っている。亡くなられたことは本当に残念だった。僕にとっての恩人。

PRISMの活動以外に、これまで印象に残っている仕事は何でしょうか

 やっぱり、松岡直也さんかな。Wesingと松岡直也グループに参加していましたが、いろんな所へツアーに行ったり楽しい思い出ばかりです。

サンタナ風のソロも得意な和田さんならピッタリだと思います。

 そうだね。実際、音楽のタイプ的に相性は良かったと思うよ。その後、僕が忙しくなっちゃって抜けたけど、もっと長く続けても良かったね。Wesingに参加した最初の頃、僕は譜面が読めなかったから、いつも松岡さんがスタジオの現場で、ピアノで弾いて教えてくれたりしてね。当時の僕は覚えるのがすごく早かったから、それで対処できていたんだ(笑)。

少し意外なところでは、阿川泰子さんのバックを務めていましたよね。

 阿川泰子さんは、松木さんがバックでギターを弾いていたことがあったのでその頃から知っていました。僕は松岡さんがアレンジをした関係で参加しましたが楽しかったです。あとは深町(純/k)さんとやったバンド、KEEPも忘れられないね。PRISMとはまた違った路線のインストをやることができたからね。

70年代からのそういった貴重な音楽的体験や聴いていた音楽が、作曲やアレンジのセンスへとつながるのでしょうね。

 70年代の初期までは、聴こえてくる音楽はロック、ソウル、ポップス、ジャズ、全部がごった煮になっていて、全部ひと絡ぎだったんだ。ツェッペリン、カーペンターズ、スティーヴィー・ワンダー、ポール・モーリア。全部まとめて洋楽というひとつのジャンルだね。だから、自然といろんな曲を聴いていた。つまり、最初からもうクロスオーバーだったんだよ。作曲やアレンジをする時にフュージョンであることを意識したことはないね。自然にこういう音楽ができちゃうんだよ。今のPRISMはメンバーも安定していて、しかもみんなうまいから活動が楽しい。新しく加入したキーボードの渡部チェルなんて、まだ若いのに昔のPRISMやKEEPの曲を何でも知っていてすぐ弾けるんだ。そんな次世代が現われてきたのもおもしろい現象だよね。ともかく、PRISMは僕のライフ・ワークだから、これからも続けていくよ。

Photo by Shiro Fukushima

PRISM/PRISM

メンバー:
和田アキラ/森園勝敏(g)
渡辺建(b)
鈴木徹(ds)
久米大作/伊藤幸毅(k)

リリース:1977年

“言葉よりも繊細に、映像よりも鮮明に”
デビュー作にして円熟した表現で魅せる1枚

“言葉よりも繊細に、映像よりも鮮明に……” という、アルバムの帯に書かれたキャッチ・コピーも印象的だったPRISM、77年のデビュー作。アナログではA面がソフト・サイド、B面がハード・サイドとなっており、気分を切り替えることができた。ソフト・サイドではメロウかつ爽やかな曲が目白押しで、決して速弾きだけではない、和田の引き出しの多さを味わえる。そしてハード・サイドでは一変してタイトかつハードにたたみ掛ける。また、四人囃子を脱退して間もない時期に急遽参加した森園勝敏とのツイン・ギターも絶妙だ。全体的には和田のリードを森園がバッキングでサポートするという印象で、レス・ポールによるハムバッキングの音色が和田、ストラトキャスターによるシングルコイルのサウンドが森園である。

このインタビューはギター・マガジン2017年10月号に掲載したものです。この号には和田アキラの使用ギター、PRISMのアルバム紹介、『THE SILENCE OF THE MOTION』発表時(1987年)のインタビューも掲載しています。

『ギター・マガジン2017年10月号』
特集:ジャパニーズ・フュージョン/AOR

PRISM official site
http://prismjapan.com