Interview|安藤正容とT-SQUARE 最新作『FLY! FLY! FLY!』に至るまで。 Interview|安藤正容とT-SQUARE 最新作『FLY! FLY! FLY!』に至るまで。

Interview|安藤正容とT-SQUARE
最新作『FLY! FLY! FLY!』に至るまで。

安藤にとってT-SQUARE最後の作品となる『FLY! FLY! FLY!』は、集大成とも言える素晴らしいギター・サウンドが聴ける。この“ラスト・アルバム”に至るまでの長い歴史を、メンバー変遷によって8つの時期に分けて振り返ってもらった。そして続くページの、最新作の制作について聞いたインタビューへと進んでいこう。

取材/文=近藤正義 撮影=小原啓樹

1978年~1979年
デビューから3作品はクロスオーバー時代

安藤 たまたまバンドがスカウトされてプロ・デビューできましたけど、最初は右も左もわからなくて大変でした。よく練習してたし、オリジナル曲も充分な数をストックしていたんですけど、レコード会社は最初はカバー曲ばかりで1枚作るつもりだったらしくて、全員で抗議したんですよ。『Lucky Summer Lady』(1978年)に「愛は夢の中に」(ポール・ウィリアムス~カーペンターズのカバー)が入っているのは、その名残りなんです。で、この時期は僕が曲を作ることが多かったのですが、メロディとコード進行だけ書いた譜面をメンバー全員に渡して、意見を出し合いながら決めていくというヘッドアレンジで進めていってました。それにクロスオーバーの時代ですから、ギターはクリーン・サウンドでジャズ的なフレーズが多いですね。ソロもインプロヴィゼーション中心でサイズが長いです(笑)。

1979年~1981年
メンバーが頻繁に入れ替わっていく

安藤 僕たちはインスト・バンドですが、たまにはボーカルも入れたいと考えていた頃ですね。これについて伊東(たけし/sax)さんがどう思っていたのか聞いたことはなかったけど……どうなんだろう(笑)? なんと言っても、エアプレイの絶頂期でしたから、やっぱりあのサウンドには影響を受けていました。レコード屋さんに行っても、プロデューサーやプレイヤーにデヴィッド・フォスターやジェイ・グレイドンの名前を見つけたら、とにかく買っていましたね。

メンバーは、マイケルが辞めてアオジュン(青山純)を始めドラマーだけでも10人以上入れ替わった。大ちゃん(久米大作/k)が入ってきたり出ていったり、デビューの頃からいた仙波(清彦/perc)さんやベースの中村(裕二)君も途中で辞めて不安定な時期でしたね。しかも癖のあるメンバーによる癖のある演奏ですから、スタジオ内で全員でアレンジをしていくと、“これは何?”みたいな混沌とした世界が出来あがってしまう(笑)。作曲した僕としては本意からはずれていくことが多かったのですが、みんな盛り上がってくれてるし、“これはこれでいいか~”って感じで楽しんでましたね。当時の僕は、みんなで協力して作りあげる、そんな現場が大好きだったんです。

1982年~1985年
固定メンバーになり方向性が明確に

安藤 和泉(宏隆/k)君、田中(豊雪/d)君、長谷部(徹/b)君が入って、バンドとしてのカラーが定まってきました。長谷部君はすでにジャニーズで仕事をしていたから芸能界にも明るかったし、和泉君は僕の意図をくみ取ったうえで曲にアカデミックな味付けをしてくれました。田中君は凄くロックに詳しかったし、彼の加入もバンドが大きくステップアップするきっかけでしたね。スラップ奏法でラリー・グラハムばりにお客さんを総立ちにさせましたから。でもジム・ホールを敬愛する僕は、あの状況には正直なところ面食らっていました(笑)。

あと、伊東さんがテレビのCMに登場して人気が出てきた頃で、アルバムも3万枚とか売れるようになってきた。そのご褒美で海外レコーディングにも行けました。ただ、ハワイのスタジオはトラブルがいっぱいで大変でしたけどね(笑)。ポップな曲調をきっちりとアレンジしたインストで聴かせるという、スクエアのスタイルが出来上がった時代だと思います。

1986年~1990年
海外も意識し始めた時期

安藤 ここでまたしてもメンバーに変動がありました。長谷部君も田中君も仲が良かったので、このメンバー・チェンジを僕は最初、受け入れられなかったんですよ。新しく入ってきた則竹(裕之/d)君も須藤(満/b)君もまだアマチュアだったし、これからどうなるんだかサッパリわからない状況。須藤君は初めてスタジオで合わせた時、スラップがまだまだ苦手だったみたいで、“大丈夫かな?”なんて心配しました(笑)。まあ、その後の進化は凄いわけですが……。2人ともカシオペアの大ファンだったみたいだから、スクエアの曲は8ビートが多くて戸惑ったみたいですね。

で、アメリカでの活動を意識して、バンド名前をT-SQUAREに変えたのもこの時期でしたね。初めてのアメリカ・ツアーも経験して、ヒット曲「TRUTH」も生まれた。期間はそんなに長くはないのですが、このメンバーの時が一番濃い時期だったような気がします(笑)。

1991年~1998年
伊東たけしの離脱、本田雅人の加入

安藤 伊東さんは退団する時、相当悩んでいたように感じましたね。でも、あの時は一度抜けてスッキリするのが良かったんだと思います。新しく入った本田(雅人/sax)君は、僕がアバウトな性格なのに対して、とても緻密で常に音楽と真剣に向き合っていました。僕は現場でもみんなを仕切るようなタイプじゃないから、本田君は僕にもっとハッキリして欲しかったかもしれませんね(笑)。ただ、ジャズをルーツとする彼のアイディアを現場でとっさに形にするためにはメンバー全員が高度な技術を要します。それによって僕もかなり鍛えられましたよ。

このメンバーでは7年やってますから、けっこう長かったんですね。イタリアのカプリ島でレコーディングしたり、ピラミッドに登って撮影したり、ロサンゼルスのプレイボーイ・ジャズ・フェスティバルに出演したり、このメンバーの時期もいろんな思い出があります。

1998年~2000年
和泉宏隆と本田雅人の離脱、そして解散へ!?

安藤 16年一緒にやってきた和泉君がピアノの世界を極めたいという意向で退団しました。7年一緒にやった本田君も音楽的方向性の相違ということで離脱。本田君の代わりには宮崎(隆睦/sax)君が入りましたが、キーボードは最初は難波(正司)君だったんだけど1作品で辞めて、そのあと松本(圭司)君に変わってもなかなか落ち着かなかったんですよ。僕としても、バンドが自分の考えるのとは違う方向に進んでいるように感じたので、新しいギタリストを入れてT-SQUAREを続けてほしいとメンバーみんなに話したところ、則竹君が“安藤さんが辞めるなら僕も辞めます”なんて言い出して、結局一旦あの時点で解散したようなものなんです。この件は当時、一切公表されませんでしたけどね。

2000年~2004年
伊東たけしとのデュオ時代

安藤 一度初心に戻ろうかなと考え始めたのがこの展開のきっかけで、ソロ活動で新たな方向を模索していた伊東さんと、“2人で何か気軽なユニットをやりたいなぁ”というノリだったんです。固定したバンドとは違って毎回プロダクションが変わるのは大変ですが、毎回なんらかのマジックが起こって楽しかったですよ。でも、海外でのセッションは大変な事も多くて。『FRIENDSHIP』の時はヴィニー・カリウタ(d)がとても気分屋さんで、ちょっとビビりました(笑)。ファーストテイクがぶっとんだ凄い演奏だったんですが、部分的に譜面を無視してたんです。で、そこを指摘してもう一度やったら、めちゃ冷静な譜面通りの演奏で面白くない。これ以上は機嫌を悪くしそうだったので結局ファーストテイクをOKにしました(笑)。

あとは『BRASIL』の時も大変でした。入国管理は袖の下がまかり通っていていい加減だし、誰もがスキさえあれば「あ、それは別料金で。」って言ってくる(笑)。スタジオの設備も整備されてなくて、もう最後はマスター・テープを持って逃げ帰ってくる感じでしたね(笑)。

2005年~現在
若き才能とともに再びバンド編成へ

安藤 僕はそのままユニット形態で気楽にやっていきたかったので、最初はあまり乗り気じゃなかったんです。でも、河野(啓三/k)君や坂東(慧/d)君という才能あるミュージシャンと巡り会ってしまったのは、これもまた運命なんでしょうね。しかし、このメンバーで15年とは凄いですね。間には時々、旧メンバーを交えたお祭りがあったり、セルフ・カバーのアルバムを出したり、あの手この手でいろんなことをしてましたけどね。

そういった企画的な周年イベントやセルフ・カバー・アルバムを現在のT-SQUAREの活動に加えてプラス・アルファとしてやるようになったのは、古いTHE SQUAREと新しい現在のT-SQUARE、お客さんからの両方へのリクエストに応えるためで。でも、メンバーが一番聴いてもらいたいのは現在のT-SQUAREの音楽。そこに対するプライドは、僕はもちろん全員が持っていると思いますよ。

最新作『FLY! FLY! FLY!』を語る>