追悼 ドン・ウィルソン(ベンチャーズ)ギター・マガジン最後のインタビュー 追悼 ドン・ウィルソン(ベンチャーズ)ギター・マガジン最後のインタビュー

追悼 ドン・ウィルソン(ベンチャーズ)
ギター・マガジン最後のインタビュー

ベンチャーズの創設メンバーでギタリストのドン・ウィルソンが、2022年1月22日にこの世を旅立った。享年88。1960年代に日本のエレキ・ブームを爆発的に推し進めたギタリストの1人であり、国内外の様々なミュージシャンたちが憧れたレジェンドだ。

また、来日公演が“風物詩”と言えるほど日本での人気は長く続き、彼らもずっと我々日本のギター・ファンを大切に思ってくれており、ギター・マガジン本誌にも何度も登場してくれた。

そんな永遠のギター・ヒーローに長年の感謝と哀悼の意を込め、本誌2018年6月号で行なったインタビューをここに再掲載する。

ベンチャーズの結成から初めての来日公演の話、そして演奏や当時の使用機材に関する貴重な証言など、ぜひすべてのギタリストに読んでもらいたい。

ギター・マガジン編集部一同、心よりご冥福をお祈りいたします。

取材=編集部 翻訳=トミー・モリー Photo by Jeff Kravitz/FilmMagic/GettyImages
※本記事はギター・マガジン2018年6月号『あの頃、ぼくらとベンチャーズ。』から抜粋/再編集したものです。

当時僕は車のセールスをしていて、
そこにボブがやって来たんだ。

今回、ギター・マガジンでは、ベンチャーズが日本に与えた影響について特集します。今年はあなたがボブ・ボーグルと出会ってバンドが始まった58年から、ちょうど60年の節目ですね。

 ああ、僕らが初めて会ったのはその頃だね。正確には前年の57年のことだったかな。

どのようにして出会ったのでしょうか?

 当時の僕は中古車のセールスマンをやっていて、車の良し悪しを見抜くことに関してはかなりの腕を持っていたんだ。ある日車を探していたボブが店にやってきて、少し話をしているうちにすぐ意気投合して仲良くなった。

 彼が欲しがっていた車があったのだけれど、その車は実は状態が良くないことがわかっていたので“それはやめといたほうがいいよ”、と彼を引き止めたんだ。店としてはすぐにでも売り払いたがっていた車だったから、あのままボブに買わせておくのが正解だったんだろうけどね。僕はセールスマンとしてはダメだったってことだ(笑)。代わりに、“ほかに頑丈で性能も良くて、お買い得な車があるのだけれど、それでどうだろうか? もう製造されていない、Hudsonというメーカーの車なんだ”と薦めたのを覚えてるよ(笑)。

そんなエピソードがあったんですね! それから、どのようにしてバンドを組むことになったのでしょうか?

 打ち解けていくうちにいろんな話をするようになり、“僕はここではウマくやっていけてないんだ。セールスマンをやるには正直すぎてね。ところで君はどんな仕事をしているんだい?”なんて相談をしたんだ。するとボブは“レンガ職人をやっているよ”と言ったので、“僕に仕事はないかな?”って聞いてみた。そうしたら“わかった、なんとかしてみるよ。僕のところは6~7人の作業員でまわしていてまだ空きがないんだけど、手伝ってみるかい?”とのことで、彼の仕事を手伝う形で付き合いが始まったんだ。

最初から音楽というわけではなかったんですね。

 ああ。僕がギターを始めたのはけっこう遅くて、23歳の時だったからね。でも、作業しながら僕が“実は少しだけギターを弾いているんだ”というと、ボブは“そうなの? 僕もギターをプレイするよ! ふたりで何か始めてみないか?”ということになった。

へえ~!

 そうして一緒に練習をして曲を書き、シンプルながらもアレンジメントを詰めたりなんかもした。ドラマー、キーボーディスト、ベーシストもいない、ギターがふたりだけというシンプルなデュオから始めたというわけさ。そのうち僕がドラムの役割も果たしてみようということになり、コードをかなりハードにプレイするスタイルを作っていった。お陰で頻繁に弦を切ってしまっていたけどね(笑)。そして僕らはよくリードとリズムの役割を交換しあっていた。僕がリードなら彼がリズム、僕がリズムをプレイすれば彼がリードといった具合にね。かなりうまくやれていたコンビだったんだ。いつしかドラマーやベーシストが加わるようになったけれど、デュオとしてやっていた時のサウンドはそのまま維持して続けていった。だから、ベンチャーズ・サウンドの核となる部分は今でもリード・ギターとリズム・ギターという組み合わせなんだ。

非常に興味深いお話です。

 そこにドラマーとベーシストが加わると“なんてグレイトなんだ!”と思い、4ピースのサウンドが生まれたというわけだね。しかし周囲からは“ギターが2本、ベース、ドラムだけの編成でレコーディングをやるなんて本気か?”なんて言われたよ。ピアノ、オルガン、サックスいずれかの楽器を入れないと話にならない、という時代だったからね。でもキーボードやサックス・プレイヤーの知り合いなんていなかったんだ(笑)。だから結局は4人でバンドとしてやっていくことにした。

デビュー当時のあなたはジャズマスターをプレイし、それはベンチャーズの特徴的なサウンドにつながりました。なぜジャズマスターを選んだのですか?

 知ってのとおり、ジャズマスターはほかの楽器と少し異なる独特なサウンドだよね。それを大好きになってしまったんだ。

当初、ほかのギターも使ったりしましたか?

 ああ。58年に僕とボブで質屋に行ってギターを買ってきたことがあった。ステラと、もうひとつはハーモニーだったかな……? 15ドルくらいのギターだったね。両方とも驚くほどに弦高が高くて、プレイしているとすぐに指が痛くなるんだ(笑)。そのギターを弾きながらふたりで学んでいった。少し経った頃にボブが“貯金してフェンダーのギターを買おうよ”と言い、ようやく僕らは2本のストラトキャスターを手に入れたんだ。

インストゥルメンタルだから
言語の壁がないのは大きいよね。

あなたは日本にエレキ・ブームを巻き起こした歴史的人物ですが、初めて日本でライブを行なった時のことを覚えていますか?

 もちろんさ! 僕らが初めて日本に行ったのは1962年のことで、アストロノウツというバンドと一緒だった。米軍基地を訪問してプレイするのがおもな目的だったから、さまざまな基地を巡ってプレイしたよ。その際にはジョー・アン・キャンベルという女優も帯同していて、彼女はちょうどジョーイ・ディー&スターライターズと映画で共演したばかりだった。この興行はタツジ・ナガシマ(永島達司:ビートルズを始め海外アーティストの日本公演を数多く手がけた伝説的プロモーター)が招聘したものだったんだけど、彼が手配できた楽器はギター2本だけだったから、僕とボブだけで日本に行くことになったんだ。バック・バンドとして日本のジャズ・ビッグバンドも呼んでくれたんだけど、まだ彼らにはロックンロールは早すぎたようで、僕らがプレイしてもどうしたらよいのか困惑していたね。結局バックをつけることなく、僕とボブのふたりでステージに上がることにした。ボブにそのことを伝えるのは少し気まずかったけどね(笑)。

それは急な展開でしたね。

 そうだね(笑)。ライブが始まると“ギターがたった2本だけなの?”という驚きで迎えられたけど、演奏が進むとどうやら気に入ってもらえたみたいだったから良かったよ。でも、僕らよりもジョー・アン・キャンベルのほうが大人気だったな。彼女が金髪の若い女優だったこともあって、僕らが街を歩くとみんなが彼女に釘付けだったのを覚えている(笑)。日本ではまだ金髪の女性は珍しい時代だったからね。

そのステージを観ていたボブ・スポルディングは「Walk Don’t Run」、「The McCoy」、「Yellow Bird」、「Perfidia」をプレイしていたと言っていましたが、覚えていますか?

 曲まではさすがに覚えていないな(笑)。でも、今あげてくれた曲は当時のレパートリーとしていた曲ばかりだ。ボブ・スポルディングは彼の父が軍関係者だったこともあって、まだ10歳くらいの頃に偶然にも日本で僕らのステージを観てくれていたらしいね。しかしその時に会うことはなくて、かなりあとになってその時のことを教えてくれたよ。あの時の僕らの演奏が、彼がギターをプレイするようにインスパイアしたらしいんだ(笑)。

ボブにとっては感動的ですよね。

 そうだとうれしいね。でも、最初の日本でのライブはいろいろと難しい状況だったな。アンプを持ってくるお金すらなかったから、日本製のアンプを使っていたね。当時の日本の楽器の技術は発展途上で、まだ質が悪くて音量が十分に得られるものではなかったよ(笑)。ステージ上にマイクはあったけれども、曲紹介をする際に使うためのものが1本置いてあっただけだった。ラウドにプレイしないと何を弾いているのか聴こえないような状況だったんだ。

当時の日本におけるベンチャーズの人気は、あなたの目にどのように映りましたか?

 僕らはまだ新人だったので、気に入ってもらえるかまったくわからなかった。しかし結果的には皆のハートを鷲掴みにしたようだね(笑)。だからこそ、その後も本当にたくさん日本に足を運ぶことができたんだ。

ベンチャーズの音楽が日本において大きな支持を得たのはなぜだと思いますか?

 言語の壁がなかったことは大きいよね。僕らはインストゥルメンタル・グループとしてナイスなメロディをプレイすることを大切にしたんだ。そして、69年までには日本のために「雨の御堂筋」や「京都の恋」といった具合にヒット曲を5~6曲書いた。それらの曲は日本語詞が付けられ、すべてナンバーワンのヒットソングになったりもしたね。ワッハッハ(笑)!

▲結成当初の若きドン・ウィルソン(左)とボブ・ボーグル(右)。ふたりともジャズマスターを手にしている。
▲結成当初の若きドン・ウィルソン(左)とボブ・ボーグル(右)。ふたりともジャズマスターを手にしている。

会場によっても変わるけど、
リバーブは半分まで回していたよ。

当時すでにさまざまなメーカーのアンプが存在していましたが、なぜフェンダー製アンプを使うようにしていたのでしょうか?

 フェンダーから“あなたたちにアンプを差し上げますので、ぜひ使ってもらえないでしょうか?”と言われたので、“いいよ!”ということで使うようになったんだ。フェンダーのアンプは僕たちのサウンドともマッチしていたからね。

ギターに関しても強く意識して選んでいたのではなく、メーカーから提供されたものを使っていたという感じなのでしょうか?

 そのとおりだね、僕らはもらったものを使っていただけだったよ。そういえば、名前を忘れてしまったけど当時すごく気に入っていたアンプがあったな……多くのアンプはボリュームを上げると歪んでくるものだろう? でもそのモデルはそんなことがなく、素晴らしいリバーブも搭載されていて、リバーブをよく使っていたベンチャーズにはぴったりのサウンドだったんだ。

フェンダーの何かだったのでしょうね。音作りの方法は決まっていましたか?

 音はすべてアンプ次第だったけど、一度うまくいったアンプの設定があったらそれをずっと使い続けていたね。僕が使っていたアンプにはミドルのノブがなくて、ベース、トレブル、ボリューム、リバーブという組み合わせのみだった。あの“テケテケ”の音を作るにはリバーブがとても重要で、それがないとサウンドとしては物足りないものになってしまうね。

アンプのリバーブはどのくらいまでノブを回していましたか?

 半分くらい回していたけれども、それは会場によってかなり変動していた。会場ごとに音が異なるから、リハーサルの時はメンバーの誰かが客席まで降りてサウンドを確認していたよ。“この会場ではもっとベースが必要だ。そうしたほうがもっと音がとおるよ”なんていう会話もあったね。

ベンチャーズのクリーンで太いサウンドはとても気持ちの良い音ですが、フェンダーのアンプとリバーブがポイントなんですね。

 そうだね。でも、僕たちがモズライトのギターを使い始めた時、ギター・トーンはクリーンではなくなってしまった。セミー・モズレーは“僕はほかのメーカーよりもピックアップを5,000回多く巻いている”、と誇らしげに話していたけれども、おかげでピックアップはかなり小さなサウンドですら拾ってしまうようになったんだ。僕らはその音に慣れてしまったけれども、フェンダー・アンプのクリーンなサウンドを組み合わせるようになったのもそれが理由だね。

もしノーキーがベースだけだったら
僕らはこんなに長く続かなかった。

ギタリスト人生の多くをサイドマンとしてリズムを刻むことに捧げてきたと思いますが、リズム・ギターの重要性とは?

 リズム・ギタリストと呼ばれるプレイヤーたちを目にすることはほとんどなくなってきたよね。時代の流れなのか、そもそもリズムをフィーチャーするようなことが減ってきたんだ。しかし僕らはずっとリズム・ギターにスポットライトを当て続けてきた。ある時デュアン・エディが“リズム・ギターは隠し味として存在すべきものであって、聴かれるべきものではない”と言っていたんだけど、これはベンチャーズとは真逆のことだった(笑)。僕らはたったの4人という編成だったので、どの楽器も隠れてしまうことがないようにした。もちろん主役はリード・ギターかもしれないけれど、ベンチャーズではリズムのサウンドもしっかりと聴こえなくてはならないんだ。

リズム・ギターを弾く際、テクニック的な面で重要なこととは?

 あの“テケテケ”のサウンドをプレイするためには、6弦のブリッジあたりを右手の掌でミュートし、ボディにベタッと腕がくっついていなければならない。リバーブをたっぷりと効かせて、ピックをとにかく自由に動かしまくるんだ。低音弦のミュートのさせ方はとても大切なテクニックだと思うね。

ベンチャーズと言えばカバー・ソングが多いですが、既存曲のアレンジをするうえで大切にしていたのはどのようなことですか?

 アルバムを作るたびに、アレンジには何ヵ月も時間を費やしていたね。僕の家にギター・アンプとドラムをセットして、長い時間をかけて“そのプレイは使える!”とか、“それだとうまくいかないよね”なんて風に試行錯誤を重ねていたんだ。単にスタジオに行ってプレイするだけではなく、たくさんのリハーサルを行なっていたということだね。

話題は変わりますが、悲しいことに3月にノーキー・エドワーズが他界しました。彼との思い出や印象に残っているエピソードを教えて下さい。

 ノーキーは本当にナイスな男だった。人前ではとても寡黙で、マイクを通じて話す時は少し声が震えているくらいだった(笑)。しかしふたりきりで話し合うと、いつまでも話が続いていたんだ。ジョークも好んでよく喋っていたね。

彼のギタリストとしての面については?

 ノーキーは「Walk Don’t Run」を始め、初期のレコーディングでベースをプレイしていたんだけど、「Walk Don’t Run ’64」ではリード・ギターを担当している。そもそも彼がベンチャーズに加入した経緯というのは、「Walk Don’t Run」でベースを弾いてくれるプレイヤーを探していたのがきっかけだったんだ。いざ弾き始めたらあまりにもうまくて、そのままバンドに入っていったという感じだった。そして、ギターもすごく高いテクニックを持っていることがすぐにわかったから、リード・ギターを任せたんだ。ボブ・ボーグルはプレイできることに限りがあったけど、ノーキーはギターもベースも、どんなキーだって自由自在にプレイすることができた。もしノーキーにベースだけを任せていたら、僕らは10枚のアルバムを作ってそれで終わっていたことだろう。

ベンチャーズではヒット曲が多いぶん、ステージでは数え切れないほど同じ曲を演奏してきたかと思いますが、新たに発見することはありますか?

 僕らはみんな新しい何かを発見していたけれど、そう多くはなかったはずだね。というのも、昔の曲こそがオーディエンスが聴きたがっていたもので、「10番街の殺人」、「Walk Don’t Run」、「Caravan」、「Wipe Out」、「Pipeline」、「Diamond Head」、といった曲をプレイし続けてきたからね。皆が聴きたい曲をプレイしたけど、何度演奏しようとも飽きられることなんてなかったんだ(笑)。

レパートリーの中で特に弾きごたえのある曲は?

 「Hawaii Five-O」はさまざまなコードを使っていて、プレイがとても難しい曲だね。ほかにも楽にプレイできない曲はたくさんあって、「10番街の殺人」は曲の展開が目まぐるしく変わっていく。セクションをひとまわしするたびにキーがG、A♭、Aと上がっていき、そのたびにポジションを変えてしっかりとプレイしなくてはならない。「California Dreamin’」なんかもハイレベルな曲だね。

観客が聴きたい曲を
僕たちはプレイし続けてきたんだ。

半世紀以上にわたり、日本においてベンチャーズの楽曲は愛され続けています。

 そのとおりだね。

その理由はどんなところにあると思いますか?

 いくつかの特徴的なサウンドがあるからだろうね。日本だけでなくアメリカにおいても、ギター・プレイに関してベンチャーズから影響を受けていると公言してくれてるミュージシャンは多くいるよ。ある時エルトン・ジョンがクリスマス・アルバムを出したことがあって、カバーしたさまざまなアーティストたちの曲の中にベンチャーズの曲があった。そのアルバムの資料で、エルトン・ジョンは“僕はベンチャーズを聴いて育った。「Walk Don’t Run」や「Perfidia」をよく聴いていた”と書いていて、そのことを初めて知ったんだ(笑)。あとはビリー・ジョエルも“ピアノで初めて習った曲のひとつは「Walk Don’t Run」だ”と言ってくれて、そういう言葉を聞くと僕たちはかなりのクラシック・ヒットを作ったのだと感じたよ。

演奏する際に大切にしているのはどんなことですか?

 僕らはオーディエンスを満足させることを常に楽しんできた。彼らが聴きたがっている曲を僕らはプレイし続けたんだ。実は、ノーキーが初めて脱退した時、彼は“昔の曲をずっとプレイし続けるのはもううんざりだ!”と言っていてね。でも“オーディエンスが聴きたがっているのはそういう曲なんだぞ!”と僕は言い返したし、それは今でも変わらないね。脱退後にノーキーはそのことに気づいてくれたようで、再びバンドに戻ってきた時には昔の曲を毎晩プレイするようになったね(笑)。

くり返し演奏するうちに、クラシック・ナンバーもさらに洗練されていくのでしょうね。最後に、改めて日本のファンたちへメッセージをお願いします。

 日本の各地にベンチャーズのコピー・バンドがいることを誇らしく思う。京都ベンチャーズ、広島ベンチャーズ、東京ベンチャーズ、札幌ベンチャーズ……ってね。これってスゴいことで、僕のハートは良い気分になってしまうよ(笑)。

ギター・マガジン2018年6月号
あの頃、ぼくらとベンチャーズ。

本記事はギター・マガジン2018年6月号の特集『あの頃、ぼくらとベンチャーズ。』から抜粋/再編集したものです。特集ではドン・ウィルソン、ジェリー・マギー、ボブ・スポルディング、イアン・スポルディングのインタビューも掲載しています。