ジェフ・バクスターが振り返る、自身が参加したドゥービー・ブラザーズ時代 ジェフ・バクスターが振り返る、自身が参加したドゥービー・ブラザーズ時代

ジェフ・バクスターが振り返る、
自身が参加したドゥービー・ブラザーズ時代

初のソロ・アルバム『Speed Of Heart』を発表した、元ドゥービー・ブラザーズ/スティーリー・ダンのジェフ・バクスター。アルバム発売直後というベストなタイミングで実現した、8月の来日公演も大盛況だった。さて、来日前に行なったインタビューより、“初のソロ作を提げた来日公演”と“愛用機材とこれまでの来日公演を語る”の2つは先に公開済み。では、いよいよインタビューのハイライトとして、“ドゥービー・ブラザーズ時代の思い出”について語ったパートをお届けしよう。

文/質問作成=近藤正義 インタビュー/翻訳=トミー・モリー Photo by Michael Putland/Getty Images

僕はドゥービー・ブラザーズの音楽的なビジョンを少し広げることを目指した

せっかくの機会ですので、ドゥービー・ブラザーズ時代の話も聞かせて下さい。パトリック・シモンズ、トム・ジョンストンという2人のギタリストがいるバンドで、3人目のギタリストとしてあなたに求められたのはどんな要素だったのですか?

 2人とは異なるアプローチだったと思う。僕のギター・プレイはどこか洗練されつつも様々な要素を含んだものなんだ。それは長い間スタジオ・ミュージシャンとしてやってきて、様々なスタイルの音楽をプレイするという経験を重ねてきたから。だから自分のスタイルを披露しながら、彼らのプレイの隙間を埋めることは、僕にとって難しい作業ではなかったんだ。

 そして僕たちの間では、アメリカの歴史上最高のロックンロール・バンドであるモビー・グレープへのリスペクトがあった。モビー・グレープには3人のギタリストがいて、それぞれがバッチリな仕事をして見事なオーケストレーションによるエキサイティングな“フル”サウンドを作り出していた。だから彼らのファンとして“これなら絶対に上手くいく!”と思っていたんだろうね。

あなたが在籍した頃のドゥービー・ブラザーズはどんな仲間でしたか? 

 そもそも彼らはバンドだったから、一緒に揃って演奏することがほとんどだった。もちろん長いキャリアの中では別のバンドでプレイしたこともあるだろうけど、ドゥービー・ブラザーズこそが彼らのミュージシャン・シップを捧げる主たる場所となっていた。それがドゥービー・ブラザーズというバンドだったんだ。

 それに対して僕はスティーリー・ダンからやってきた時、彼らの音楽的なビジョンを少し広げることを目指した。僕はセッション・ミュージシャンだったからね。そのためには、ほかのアーティストのレコーディングにバンド全員でリズム・セクションとして参加することも提案したよ。リトル・フィートみたいにね。実際、僕たちはスタジオ・ミュージシャンとして、レオ・セイヤー、カーリー・サイモン、ホイト・アクストンといったアーティストたちのレコーディングを手伝ったんだ。

あなたのスタジオ・ミュージシャンとしての経験をほかのメンバーにも体験してもらったのですね。

 僕はスタジオでの規律が好きでね。スタジオに入れば、プロデューサーはそのミュージシャンが有名かどうかなんてまったく気にもしない。しかも求められるプレイをしなければ、すぐにクビになる。もちろんプレッシャーもあったけど、それはむしろ良いことだと思う。ミュージシャンとしてのベストを尽くさざるを得なかったからね。

 リズム・セクションとしてほかのアーティストのレコーディングに参加するという機会を作ってから、バンドはもっと成長していったよ。そういったセッションでの経験を糧にしてレパートリーに加えたり、音楽性に磨きをかけていったんだ。彼らは今だってもちろんのこと、昔からずっと才能あふれる人たちだったからね。

それによる成果はどんなところに感じましたか?

 「運命の掟(原題:Livin’ On The Fault Line)」(『運命の掟』収録/1977年)のレコーディングの時だったと思うんだけど、ドラマーのキース・ヌードセンがトラックを聴き返して、“51小節目のところで、ドラムのスネアのビートがずれちゃったんじゃないかな?”と言ったんだ。僕は“大正解。君はもう見事にこちら側の人間だ。君は批判的に音楽を聴けるようになり、すべてをフォローして完璧なものを作りたくなってしまったんだ”と答えた。こんな風に、ちょっとスティーリー・ダンのようなところも芽生えていったね。

バンドの変化はとてもスムーズに行なわれていったよ

トム・ジョンストンの時期のアルバムでサポートも含めて参加していた『The Captain and Me』(1973年)、『What Were Once Vices Are Now Habits』(1974年)、『Stampede』(1975年)の中で一番好きなアルバムは? また印象に残っている曲は?

 『The Captain And Me』と『What Were Once Vices Are Now Habits』では、僕はスタジオ・ミュージシャンとして自分のプレイを捧げたという感じが強い。彼らから“特別なプレイをしてほしい”と誘われて参加していたんだ。だから好きな曲を挙げるというのは難しいんだけど、「South City Midnight Lady」は美しい曲で好きだね。僕はペダル・スティール・ギターをプレイしていて、とても楽しい曲だったよ。

 正式メンバーになってからのアルバム『Stampede』は、僕自身とてもエンジョイしていたよ。一緒にツアーをして、彼らの音楽の一部になることができたからね。

トム・ジョンストンが健康上の理由でバンドを離れ、その代わりにギタリストではないマイケル・マクドナルドを加入させたのは、バンドとして何か考えがあったのでしょうか?

 僕がマイケルに声をかけて、バンドに参加してもらったんだ。トムのプレイを引き継ぐというよりも、何かほかの要素を加えてもらうのが目的だった。

 トムの健康状態が優れなくなってきて、ツアーをやるためにも“マイケル、君にはバンドに入ってもらわなくちゃならないんだ”と電話をしたら、彼は飛んできてくれた。そしてコンサートもやった。多くの人たちが彼の声、ミュージシャンシップ、そして成長する作曲のスキルを楽しんでいた。

 彼が加入してから最初のアルバム『Takin’ It To The Street』(1976年)の表題曲(註:作曲はマイケル・マクドナルド)なんて驚異的な曲だよ。当時の僕やバンドにはほかに候補になるような人をじっくり探す時間もなくて、知り合いだったマイケルに声をかけたんだけど大正解だった。そんな風にバンドの変化はとてもスムーズに行なわれていったよ。

ジェフ・バクスター
ジェフ・バクスター

僕の人生を本に例えるなら、“ドゥービー・ブラザーズ”という1つの素晴らしい章が確実にある

70年代の半ばは、豪快なハードロックよりもソフトでスタイリッシュなAORが好まれるようになってきた時期でした。その点はギタリストとしてどのように受け止めていたのですか?

 それでも僕たちはけっこうハードなロックの要素を残していたと思うよ。もちろん、色んなジャンルの音楽を導入することによって、ドゥービー・ブラザーズが大きくなっていったことも認めなくてはならない。

 僕らはロックらしいハードなエッジをバンドの中にキープしながらも、新たなアイディアにトライすることを奨励していたんだ。歪んだギター・サウンドは少なくなったけど、常にギターが曲をリードするように意識していたよ。大ヒットした曲だけじゃなくてアルバム全体を聴いてもらえれば、それを理解してもらえると思う。

『Takin’ It To The Street』(1976年)、『Livin’ On The Fault Line』(1977年)、『Minute By Minute』(1978年)、この3枚でバンドは商業的にも大成功を収めたと思います。それぞれの作品について聞かせて下さい。

 『Takin’ It To The Street』はとにかく楽しいアルバムで、演奏していて楽しく感じる曲がたくさんあった。実はゴスペルのフィーリングがいっぱい詰まったアルバムだったしね。そもそもゴスペル音楽というのは楽しめるものだから、それに通じるものをプレイするのは素晴らしい経験だったよ。あのアルバムの中では、「Rio」は個性的な曲でとても気に入ってる。

 『Livin’ On The Fault Line』はかなり洗練されたアルバムで、本当にたくさんのことをやっていた。タイトル曲の「Livin’ On The Fault Line」は、もはやジャズ/フュージョンと呼ぶべきだろうね。この作品は、当時のメンバーのそれぞれが、どれだけ豊かな才能を持っていたかを示していると思う。

 『Minute By Minute』はかなりコマーシャルなアルバムだ。構成もよく練られているし、グレイトなグルーヴがあった。最高傑作だと思う。結果としてアルバムもシングル「What A Fool Believes」も全米1位になり、グラミー賞も受賞したからね。

この時代のドゥービー・ブラザーズのアルバムを聴くと、まさにあなたのギター・プレイが曲をリードしていました。アメリカンなルーツを感じさせながらも洗練されたスタイルである、あなたのギターがあってこそ、バンドは時代の変化に対応できたのでしょう。それだけに、再結成されてからのドゥービー・ブラザーズに欠けているものがあるとすれば、それはあなたのギターだと思うのです。そう感じる往年のファンは多いと思うのですが、ご自身ではどう感じておられますか?

 それは素晴らしい言葉だよ。そういう賛辞をくれたことをありがたく思う。バンドが全員一丸となって活動していた時期を支えていたことは自分でもわかっているし、マイケル・マクドナルドをバンドに誘ったのも僕だった。だから今、僕が彼らと一緒にいないことは残念に思うところだけれど、将来的にチャンスがあるならその時はぜひ参加してみたいと思う。くり返しになるけれど、そんな素敵な言葉をいただいて、どうもありがとう。

あなたはバンドの絶頂期である『Minute By Minute』を最後にバンドを脱退しましたが、その原因は?

 単にもうその時が来たと感じたからだよ。ドゥービー・ブラザーズ史上最高のアルバムが完成したと思ったし、それが僕の去るベストなタイミングだと思ったんだ。

その後、ドゥービー・ブラザーズは色んなメンバー構成で何度も再結成されてきましたが、あなたがそこに参加してこなかった理由は?

 僕が正式メンバーとしてドゥービー・ブラザーズにいたのは、アルバム『Stampede』、『Takin’ It To The Street』、『Livin’ On The Fault Line』、『Minute By Minute』の時期で、セールスのキープや色んなことのプレッシャーが大きくて、いつも“よし、もうこれが最後のアルバムかもしれない。これが終わったらバンドは二度と集まることはないだろう”と思っていた。アルバムを作るたびにそれをくり返していたのだから、もう僕はすでに3~4回の再結成に参加していたと言えるんじゃないかな(笑)。

 80年代以降にバンドが再結成されていた頃の僕は、ギターを作ったり、アルバムのプロデュース、セッション・ワークといった仕事以外にもかなり忙しいスケジュールを抱えていて、すべてを行なったうえにバンドにも加わることは時間的に難しかったんだ。

現在のドゥービー・ブラザーズに対して、何かエールやコメントがありましたらお願いします

 ドゥービー・ブラザーズが今も活動していることを僕は誇りに思っている。また、僕は自分自身がドゥービー・ブラザーズに参加していたことも誇りに思う。僕の人生を本に例えるなら、“ドゥービー・ブラザーズ”という1つの素晴らしい章が確実にある。

 ドゥービー・ブラザーズの音楽はとてもクオリティが高くて、ずっと成功を続けることで普遍的なものとなった。思い返せば、リハーサルする時にも、いつだって自分たちがやっていることの細かなところまで神経を研ぎ澄まして集中していた。そういった当時のことを考えるだけで、僕は良い気分になれるんだ。