ミシシッピ、モダン・シカゴ、ウェスト・コーストなどなど、ブルースはその土地や時代によって地名でカテゴライズされるほど特徴が分かれている。インターネットが発達していない時代、アメリカという広大な土地ゆえに文化が平均化されづらいということも大きな要因だと思う。今回はその中でも、戦前からブルースの中心地のひとつであった“テキサス”に注目したい。テキサス・ブルースならではの特色を、時代の流れとともに追っていこう。
文=小出斉
ブルース商業化の黎明期から
テキサスは中心地であった
今年、2020年から遡ること100年前の1920年。ヴォードヴィルで活動する女性シンガー、メイミー・スミスの歌う「クレイジー・ブルース」がヒット。“ブルース”なるものが人気らしいと、レコード会社がこぞって録音を開始する。アメリカ本国での最初のブルース・ブームである。しかし、ブルースそのものは、その数十年前、19世紀終わり頃から20世紀初頭にかけて、南部の農村部(プランテーション)から生まれたもの。その源泉と目されるのは、ミシシッピのデルタ地帯にあるプランテーションだが、その当時は、ラジオ、レコードなどのメディアは未発達。季節ごとに働き場所(プランテーション)を変えるような労働者兼ミュージシャンによって、じわじわと南部一帯に広まっていき、その土地その土地で独自に発展していった。
そんな初期ブルースの主要地域のひとつがテキサス。そこで最初にカントリー・ブルースのスターとなったのは、ヒューストン、ダラス/フォート・ワースや近郊一帯を回っていたブラインド・レモン・ジェファースンだった。歌に呼応して、変幻自在にくり広げられる演奏は、SPレコードを通じて人気を博し、若きB.B.キングやアルバート・キングも影響を受けたほど。地元ではT-ボーン・ウォーカーが盲目のレモンの手を引くリード・ボーイをしたことがあるとか、ライトニン・ホプキンスが近くに来たレモンの演奏を見に行き、ギターの手ほどきを受けたといった直接の関わりも生まれた。ほかにも、レモンとは対照的なプリミティブさを持ち、強烈なモーン(唸り)を聴かせたテキサス・アレクサンダー(楽器は弾かず)も人気があり、リトル・ハット・ジョーンズ、ファニー・パパ・スミスといった優れたギタリストがバックをつけていた。また、オスカー・ウッズ、ブラック・エイスといった、膝にギターを乗せたスタイルのスライド奏者も出現している。
エレキで単音ソロを奏でた
T-ボーン・ウォーカーの出現
戦後も、カントリー・ブルースの伝統はライトニン・ホプキンス、フランキー・リー・シムズ、リル・サン・ジャクソンといった人々に受け継がれ、弾き語りで、一定のベース音を弾き続けるモノトニック・ベース奏法、テキサスの特徴的なスタイルに。また、アコースティック弾き語りからエレキ、そして時にリズム隊をつけるようなモダン化も進んだ。
そう、戦後のブルースの胆となるのが、エレキ。ビッグ・ビル・ブルーンジー、タンパ・レッドといったシカゴで活動するシティ・ブルースマンが、38年頃からエレキ・ギターを導入してはいたが、T-ボーン・ウォーカーが42年録音の「ミーン・オールド・ワールド」、「ガット・ア・ブレイク・ベイビー」で、エレキ・ギター・ソロをたっぷり披露し、センセーションを巻き起こす。T-ボーンの単弦でメロディックなソロが、ギターの可能性が格段に飛躍させた。ブルース・ギターも、ブルースそのものも、T-ボーン出現前後で分けられるほどだ。バンド化も戦後より進んでいった、といえる。
それほどまでに、T-ボーン出現の余波は、戦後に活躍するほとんどのギタリストに及んだといってもいいが、特に地元テキサスでT-ボーンの好敵手となったのが、クラレンス・ゲイトマウス・ブラウン。T-ボーン・スタイルをベースにしつつも、カポタストを使用し、より細かい譜割での攻撃的なプレイが身上だった。そのあとを追い、40年代後半から50年代前半にかけて、当時の主流だったビッグ・バンドにアグレッシブなギターを乗せるブルースマンが多数出現した。さらにそれは、ジョニー・ギター・ワトスンやアルバート・コリンズらに受け継がれ、“テキサス・アグレッシブ・スタイル”とも総称される。
レコード産業も発展し、テキサスにも数多くのインデペンデント・レーベルが生まれたが、その中で最重要なのが、ヒューストンのデューク/ピーコック。もともとはピーコック・ブロンズというクラブのオーナーだったドン・ロビーが、具合が悪くて休憩に入ったT-ボーンの代わりに飛び入りしたゲイトマウスが大うけしたのを見て、ゲイトを録音するために設立(49年)。のちに、メンフィスのデューク・レーベルを買収しデューク/ピーコックとして発展し、数多くのブルースやゴスペルを録音した。メンフィスで活動していたボビー・ブランドやジュニア・パーカーらも、その伝手でヒューストンに赴き、テキサスのバンドをバックに録音。特にブランドのバックではロイ・ゲインズ、クラレンス・ハラマンといったギター名手が活躍したものである。また、のちにスティーヴィ・レイ・ヴォーンが録音し、デビュー・アルバム・タイトルとした「テキサス・フラッド」も、デュークに残されたものだった(原曲はラリー・デイヴィス=但し、本人はテキサスとは無縁)。
攻撃的なテキサス・スタイルと
洗練された西海岸ブルース
先ほどから何度か、攻撃的、アグレッシヴというワードを使っているが、テキサス・ブルースといえば、攻撃的で、タフで骨太な印象が強い。土地柄、であろうか。珍しく?ダラスからシカゴに向かったフレディ・キングは、BBキングの洗礼を受け、またシカゴ・ブルースマンの奏法を覚えたが、根本的なところにテキサスの血を感じたりするものだ。
さて、テキサス・スタイルは、西海岸にも飛び火した。黒人たちは、第一次世界大戦~第二次世界大戦にかけて、産業の変化にともない、仕事を求めて移住。ミシシッピ~メンフィスから北上してシカゴへというルートに対し、もともとアメリカ西部とみなされることもあるテキサスは、西海岸と強く結びついていたのだ。ミュージシャンも足取りも同様で、先に上げたジョニー・ギターもそうだし、T-ボーンに直接学んだピー・ウィー・クレイトン、テキサス・アレクサンダーとも活動したローウェル・フルスンなど、テキサス出身だが、活動はLAやオークランド、サンフランシスコなどの西海岸。何といっても、T-ボーン自身、録音も大半はLAで行なっていたし、ライトニン・ホプキンスの初録音も、LAのアラジン・レーベル。移住はせずとも、テキサスとカリフォルニアを行き来していたブルースマンも少なくなかった。フレディ・キングに関して、“珍しくダラスからシカゴに”と書いたのもそうした理由からである。
とはいえLAでは、ナット・キング・コールに代表されるようなジャズや洗練されたバラード音楽が主流であったので、テキサス・ブルース=西海岸ブルースとはいかないわけだ。T-ボーンやピー・ウィーなど、ジャズ的な要素や甘さも必然的に取り入れることになる。それに対してテキサスに留まったミュージシャンたちは、より荒々しさを保っていた、とも言えるかもしれない。
ロックも、そんなブルースの伝統を受け継いだ。100万ドルのブルース・ギターの呼び声高くデビューしたジョニー・ウィンター、砂埃が起きそうなブギで人気を得たZ.Z.トップ、80年代のギター・ヒーローとなったスティーヴィ・レイ・ヴォーンなど、その個性はテキサスという土地と分かちがたいのだ。