追悼 パット・マルティーノ〜孤高のジャズ伝道師の安らかな眠りを祈って。〜 追悼 パット・マルティーノ〜孤高のジャズ伝道師の安らかな眠りを祈って。〜

追悼 パット・マルティーノ
〜孤高のジャズ伝道師の安らかな眠りを祈って。〜

端正な音運び、驚愕のテクニック、独自の思考法、そしてその紳士的な立居振る舞いで、ジャズ界のみならず、あらゆるギタリストに影響を与えてきたパット・マルティーノ。2021年11月1日、この偉大なバーチュオーゾが亡くなった。ジャズ・ギターの新たな地平を切り拓き、その可能性を押し広げた天才に敬意を込め、ここに追悼記事をお送りする。マルティーノの凄さが味わえる必聴プレイリストも作成したので、そちらも合わせてチェックしてほしい。

文/選曲=久保木靖 Photo by Jazz Services/Heritage Images/Getty Images

10代でハーレムに身を投じていった“The Kid”

強烈なピッキングと息もつかせぬロング・フレーズで聴く者を興奮の渦に巻き込んできたギタリストがいる。彼が示したジャズへのストイックなまでの姿勢はまさに“聖人”と呼ぶべきもので、世界中のミュージシャンやファンはそんな彼を憧れと尊敬の念を込めた眼差しで見つめてきた。その男、パット・マルティーノが2021年11月1日に逝去。享年77であった。

1944年8月25日、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアに生まれたマルティーノは、幼い頃から父の影響でジャズに親しみ、やがてギターを手に。当時受けていたレッスンの先生から強すぎるピッキングを改めるように指導されるものの、後日レス・ポールから「そのまま励みなさい」と勇気づけられ独自のスタイルを突き進む。ちなみに、マルティーノが1弦に.016(ライト・ゲージの3弦に相当)という太い弦を張る理由は、一般的なゲージだと強いピッキングゆえに切れてしまうからだ。

1960年代に入ってNYへ進出したマルティーノは、ソウルフルなオルガン・ジャズが席巻するハーレムに身を投じていく。当時まだ10代後半だった彼は“The Kid”というニックネームで呼ばれ、ジャック・マクダフ(org)やソニー・スティット(sax)といった猛者たちに揉まれながらも一目置かれる存在に。そして、ウィリス・ジャクソン(ts)の『Grease ‘N’ Gravy』(1963年)で初レコーディングを経験した。

魂のこもったトーンで奏でられる美しいライン

活動歴の長さに対してリーダー・アルバム数は30には届かず、やや少ないと思われるかもしれない。これは自身の脳動脈癌と、両親の介護と相次ぐ他界により、2度に渡る長期ブランクがあったからだ(1980年の手術後は、一時、自分の名前も覚えていないほどの記憶障害に陥った)。

しかし、マルティーノのプレイからは常に人生観のようなものが滲み出しており、特に後期作品からは“これが最後かもしれない”といった気迫めいたものまで感じられる。

雄弁に歌いまくる「Just Friends」が収められたデビュー作『El Hombre』(1967年)、流れ落ちる滝のごとくフレーズが連なる「Sunny」を含んだ『Live!』(1972年)、ギル・ゴールドスタイン(p)とのデュオ作『We’ll Be Together Again』(1997年)、フュージョンに取り組んだ『Joyous Lake』(1976年)、ブランク空けの『The Return』(1987年)、レス・ポールやジョー・サトリアーニらと共演した『All Sides Now』(1997年)など、いずれも魂のこもったトーンが聴く者の胸を圧迫する名作だ。

そんな中、ジャズ・ギターの金字塔として常にあげられるのが『Exit』(1977年)。ここに収録された「I Remember Clifford」のソロは単なるシングル・ノートでプレイされているとは思えないほどの美しい音世界を構築している。「Days Of Wine And Roses」と「Blue Bossa」も、コピー譜が幾度も雑誌や教則本に掲載されたお手本的な名演だ。

大きな遺産“マイナー・コンバージョン”と、愛用のギター

ウェス・モンゴメリーによってやり尽くされた感のあったハード・バップ・スタイルのジャズ・ギターを、研ぎ澄まされた感性と圧倒的なテクニックで拡張し、ジム・ホールやジョージ・ベンソンと並んで近現代のプレイヤーたちに絶大なる影響を及ぼしてきたマルティーノ。8分音符で延々と連なるロング・フレーズ、ソロのクライマックスで登場するシーケンス・フレーズといった演奏面での特徴の中で、特にインパクトが大きいのが“マイナー・コンバージョン”である。

マイナー・コンバージョンとは、ざっくりと言うと、“あらゆるコードをマイナー・コードとしてとらえてスケール選択をする”というもの。例えば、C△7をAm7ととらえてAドリアンで弾く、G7をDm7ととらえてDメロディック・マイナーで弾く、といったことだ。こうすることで、Keyによってペンタ・ポジションを使い分けるのと同様に、定形のポジションを切り替えていくことで様々なコード進行に対応できるのだ。

初期の使用ギターは、ギブソンのJohnny SmithやL-5 CESといった大型の箱モノが多かった。しかし、ブランク後はハウリングを避けるためエイブ・リヴェラのScepter、ギブソンやベネデットのPat Martino Signatureといった小型のセミホロウを愛用。ちなみに、本人使用のギブソンPat Martino Signatureのピックガードには自らのサインが印字されているが、市販品にはそれがない。「新しいギターを買って、そこに他人の名前が入っていたら嫌だよね?」という、マルティーノらしい配慮ゆえである。

筆者はこれまでにマルティーノのライブ鑑賞はもちろん、取材にも何度も立ち会い、彼の紳士的な振る舞いや知的な表現に常に感銘を受けてきた。拙書『ディスク・ガイド・シリーズ JAZZ Guitar』(2009年/シンコーミュージック刊)を出版する際には、日本語にもかかわらずアヤコ夫人を介して原稿に目を通し、帯に推薦文を寄せてくれた。あの時を振り返ると、筆者の胸はいつも温かい思いに包まれる。

2018年には体調不良により来日がキャンセルになったこともあった。同年から慢性呼吸器疾患を患っていたという。そして長い闘病生活の末の死去。その翌日、フィラデルフィアの自宅周辺は、マルティーノの死を悼むように、1日中、小雨が降り続いていたという。ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。