パット・マルティーノの歩み【前編】若き天才の誕生〜デビュー パット・マルティーノの歩み【前編】若き天才の誕生〜デビュー

パット・マルティーノの歩み
【前編】若き天才の誕生〜デビュー

パット・マルティーノの偉大な足跡を辿る特集は、彼のバイオグラフィから始めよう。まずは人生の前半として、誕生からプロ・ギタリストとして活動をスタートさせた10代半ば、そしてレコード・デビューから絶頂期=ミューズ時代までを綴る。

文=久保木靖

神童と称された地元フィラデルフィア時代

パット・マルティーノ(Patrick Carmen Azzara)は1944年8月25日、米国ペンシルバニア州フィラデルフィアに生まれた。地元のクラブ歌手をしていた父親は、ジャズ・ギターのパイオニアであるエディ・ラングに師事したこともある人物で、家にはそのラングを始め、ジャンゴ・ラインハルトやチャーリー・クリスチャンなどのレコードが溢れていた。

その父親の影響で幼い頃からギターを手にしていたマルティーノは、当時人気を博していたジョニー・スミスのプレイの“完コピ”を通して腕を上げていったという。“父に連れられてナイトクラブへ行った時のこと、ステージに飛び入りした私はジョニー・スミスのソロをそのまま弾いたんだが、どうも周りと合っていない。演奏しているキーが違ったんだ! それで移調の必要性などを知ったんだよ”……といったこともあったらしい。

デニス・サンドールのもとへ通ったレッスンでは、同じく生徒だったジョン・コルトレーンとの交流も生まれた。また、フランキー・アヴァロンやボビー・ライデルといった地元出身の初期ロックンローラーらとの活動も積極的に行なっていたようだ。こうして音楽に専念するために15歳で学校を退いたマルティーノは、R&Bシンガーのロイド・プライスのツアー・メンバーとなり、そこで手応えを掴むと間もなく“ジャズの中心地”ニューヨークへ居を移すのだった。

ハーレムでの活動とレス・ポールとの交流

ニューヨークのハーレムでは、同郷のオルガン奏者チャールズ・アーランドのグループでどっぷりとソウル・ジャズに浸かった。1960年代に入るとジーン・アモンズ(sax)やソニー・スティット(sax)といったビバップ〜ハード・バップを制してきたような猛者たちに揉まれながらも、“ザ・キッド”と呼ばれ一目置かれる存在に。そして、ウィリス・ジャクソン(sax)の『Grease ‘N’ Gravy』(1963年)で初レコーディングを経験すると、1965年にはジョージ・ベンソンに代わってジャック・マクダフ(org)のグループのメンバーとなった。

この時期、マルティーノはニュージャージーにあるレス・ポールの自宅に居候しており、しばしばポールの車でハーレムの仕事場へ送ってもらっていたという。実は、2人はマルティーノが13歳の時に顔を合わせていた。その時、強いピッキングや音数の多いマルティーノの演奏スタイルに対して、ポールは“それらは君のアイデンティティとなる。そのまま励みなさい”と勇気づけたと言われている。

1963年にはこんなことがあった。マルティーノが自分の仕事のあと、ポールを誘ってウェス・モンゴメリーのギグに顔を出すと、そこにはなんとグラント・グリーンとジョージ・ベンソンも観に来ていた。セット終了後、彼ら5人は全員で朝食を食べに行き、ギター談義に花を咲かせたという。“あれはアメイジングな時間だった”とはマルティーノの述懐だが、いやはや、こんな一夜があったとは!

ジャズ・ギターの金字塔を続々と生んだ絶頂期

着々と実績を積み上げたマルティーノに1966年、ヴァンガードからリーダー・アルバム録音の話が舞い込む。トミー・フラナガン(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(d)という超一流どころがバックを付けたにもかかわらず、音源は結局お蔵入り(現在も日の目を見ていない)。

そして1967年、ついに23歳という若さでプレスティッジから『El Hombre』でリーダー・デビューを果たす。アレンジ面でソウル・ジャズや前時代的なハード・バップを引きずりながらも、強力なピッキング、極太トーン、そしてロング・フレーズという独自のスタイルが完成していることに驚きが隠せない。『Baiyina(The Clear Evidence)』(1968年)ではタンブーラのドローンを効果的に使うなど、東洋思想からくるスピリチュアルな世界への接近を見せた。

その後、コブルストーン→ミューズと移籍。自由な制作を託された同レーベルにおいて、『Live!』(1974年)や『Exit』(1977年)といったジャズ・ギターの金字塔を作り上げ、ここに絶頂期を迎えた。大手ワーナーからも『Joyous Lake』(1977年)などをリリース。

そんなさなか、重大な懸念が勃発する。それまでも発作や失神に悩まされていたが、1980年に病院に担ぎ込まれて頭部をスキャンしたところ脳に腫瘍があることが発覚(生まれつき脳動静脈奇形を患っていた)。故郷フィラデルフィアに戻って手術を受け、一命はとりとめたものの、その後、しばらくは引退同然の生活を余儀なくされてしまうのだ……。