Biography|ビリー・バトラー|百戦錬磨のスタジオマンから、プレスティッジの看板ギタリストへ。 Biography|ビリー・バトラー|百戦錬磨のスタジオマンから、プレスティッジの看板ギタリストへ。

Biography|ビリー・バトラー|百戦錬磨のスタジオマンから、プレスティッジの看板ギタリストへ。

ジェームス・ブラウンやマイルス・デイヴィス、ビーチボーイズにブライアン・セッツァー、テッド・ニュージェントまでカバーしたR&Bインスト「Honky Tonk」。その共同作曲者の1人であるギタリストの名前は、この名曲ほどには知られていない。サイドマンとして数々の名曲をサポートする一方、ボリューム・ペダルやベース・ギターを駆使した独創的なプレイでも知られるソウル・ジャズの職人が今回の主人公だ。

文=久保木靖

ファンキー・サイドへ殴り込んだソウル・ジャズの職人

 ビリー・バトラーは1924年12月15日、ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた。8歳のクリスマスの時に父親からバイオリンをプレゼントされ、音楽に夢中になっていく。

 その後、昼食代にと渡されたお金を節約し12歳でギターを購入すると、独学でメキメキと腕を上げ、ハウス・レント・パーティなどで演奏活動を始めた。

 しかし、それでは飽き足らないバトラー少年は、16歳の時に2歳ほどサバを読んでユニオン・カードを入手し(そんなことが可能なのか!?)、地元のクラブで演奏の仕事を得たという。

 3年間の入隊を経て、1940年代後半にはジャズ・ピアニストのレッド・ガーランドのグループで音楽活動を再開。また、The Harmonairesというボーカル・グループのメンバーとなり、ワイノニー・ハリス(vo)のレコーディングにも参加している。ただ1950年代初頭は、“音楽ビジネスが低迷しているように見えた”とのことで、工場での仕事に就いていたようだ。

 バトラーが再び音楽シーンに復帰するのは、ドク・バグビーというオルガン奏者のトリオ・メンバーとなった1952年の暮れ。間もなくビル・ドゲット(organ)のグループの一員ともなり、冒頭で述べた「Honky Tonk」(1956年)をドゲットとともに作曲した。

 バトラーが弾くシンプルなブルース・リフとキャッチーなソロに導かれるこの曲はビルボード・ホット100で3週間連続2位、R&Bチャートでは13週連続1位となる大ヒットを記録。バトラーは、商業的な成功を収めたこのドゲットのグループに1962年まで在籍しており、プレスティッジのプロデューサー、ボブ・ポーターが彼の演奏を耳にしたのはこの期間だった。

グルーヴ・ホルムズとの共演からジャズファンクに開眼。

 その後、フリーとなったバトラーは、同じくドク・バグビー・グループの卒業生であるミッキー・ベイカーとエヴェレット・バークスデールという2人のギタリストの口利きもあり、スタジオ・ミュージシャンとして生計を立てていく。まさに理性的な職人プレイで、ジェームス・ブラウン(「It’s A Man’s Man’s Man’s World」!)やジョイ・ディー(「Peppermint Twist」!)のほか、イリノイ・ジャケー(ts)、ディジー・ガレスピー(tp)、ジミー・スミス(organ)らと共演。

 キング・カーティス(sax)との活動は、のちにこのバンドのギタリストとなるコーネル・デュプリーの憧れの的だった。そして、リチャード・グルーヴ・ホルムズ(organ)の『That Healin’ Feelin’』(1968年)への参加でジャズファンクに開眼。

 ついに『This Is Billy Butler!』(1969年)でリーダーとしての狼煙を上げると、『Guitar Soul!』(1969年)、『Yesterday, Today & Tomorrow』(1970年)、『Night Life』(1971年)と計4枚のアルバムを名門プレスティッジから発表。同時にソニー・スティット(ts)やヒューストン・パーソン(ts)、ジーン・アモンズ(ts)らのソウル・ジャズ〜ジャズファンク作に客演することで、ブーガルー・ジョー・ジョーンズやメルヴィン・スパークスらと並ぶ同レーベルの看板ギタリストとなった。

 ここで露わになったバトラーのプレイは、チャーリー・クリスチャンなどの黒人スウィング・ジャズ・ギタリストの延長にありつつも、同世代のミッキー・ベイカーなどに通じる豪快なR&Bテイストがあるということ。得意のボリューム奏法はおそらくタイニー・グライムスから触発されたものだろう。

 その上で、ウェス・モンゴメリーの使用でも知られたベース・ギター(ギターの1オクターブ下の6弦楽器)を導入したり、ナイロン弦アコースティック・ギターでトレモロ奏法を繰り出したり、バラードをメロウにキメてみたりと、百戦錬磨のスタジオ出身らしく多彩なプレイで注目を集めた。ワウの使い方もかなり振り切れていて、この時期に登場したジミ・ヘンドリックスが視野に入っていたに違いない。

 プレスティッジをあとにしたバトラーは、ロック・ミュージカルを取り上げた『Plays Via Galactica』(1973年)、スウィング・ジャズの大先輩アル・ケイシーとの『Guitar Odyssey』(1974年)、ストレートなオルガン・ジャズ作『Don’t Be That Way』(1976年)などを放つものの、徐々に仕事の中心は再びスタジオ・ワークへ。

 そして1991年、ニュージャージー州ティーネックの自宅で心臓発作のため死去した。享年66。

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