テレヴィジョンは“パンク”か? 『Marquee Moon』が与えたインパクト テレヴィジョンは“パンク”か? 『Marquee Moon』が与えたインパクト

テレヴィジョンは“パンク”か? 『Marquee Moon』が与えたインパクト

1977年の2月8日、現代まで聴かれ続けているテレヴィジョンの名盤、『Marquee Moon』がリリースされた。“ニューヨーク”パンクの象徴的な1枚だが、一般的に“パンク”としてイメージされるロンドンのそれとは、音像もアプローチもまったく異なる作品だ。今回はこの不朽の名盤をどのように解釈すべきかを考えていこう。

文=長谷鉄弘

ニューヨーク“パンク”とは?

トム・ヴァーレイン率いるテレヴィジョンや、1970年代前半〜後半にかけてのニューヨークで“CBGB”に出演していたバンドたち──パティ・スミス・グループ、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ、ラモーンズ、ブロンディ、トーキング・ヘッズら──は今日“ニューヨーク・パンク”とカテゴライズされることが多い。

しかし、彼らの表現は“この街でしか生まれ得ない”空気感のようなものにおいて通底していたとしても、多様な作風やアティテュードを“パンク”と一括りにしてしまうのはやや乱暴に感じられる。

1974~75年にかけてニューヨークで暮らし、テレヴィジョンのメンバーらと交流した水上はるこ氏によれば、当時はパティ・スミス・グループのギタリストであり音楽ライターでもあったレニー・ケイすら“パンク”という言葉を使っていなかったそうだ。

氏はまた、トムが少年期を過ごした街を訪れた時の印象をこう記している。

1974年の夏はそうやって過ぎ、8月の末にビリー(引用者注:フィッカ)がレンタカーでウィルミントンに連れて行ってくれた。そこで更に驚いたのは、彼が非常に裕福な家の出身だということだった。大きな一軒家の温かい家庭で育ち、トムもリチャード(引用者注:ヘル)も似たような環境だったという。私のイメージとは裏腹に、彼らの故郷は豊かで美しいアメリカの古き良き町だ。のちに「パンクは労働者階級の叫び」と書かれたのを読むたび、それは違う、と苦笑したものだ。

MUSIC LIFE CLUB『最低で最高のロックンロール・ライフ』第9回「1974年マンハッタン最前線──パティ・スミス、テレヴィジョン、そしてトーキング・ヘッズ」より引用

“ロンドン・パンク”との関わり

先に挙げた“CBGB”の常連たちの中でテレヴィジョンのアルバム・デビューは遅く、1973年に1stを発表していたニューヨーク・ドールズは別格としても、パティ・スミス・グループは75年に、ラモーンズとブロンディは76年にそれぞれLP盤を出していた。

リチャード・ヘルは1974年頃からTシャツをビリビリに破き、炭酸飲料を髪にかけ逆立たせていたそうだが、ロバート・メイプルソープが撮影した『Marquee Moon』のジャケット・ポートレイトでテレヴィジョンの4人が着ているのは、新奇なファッションを売りにするバンドとはまったく異なる地味な服である。

『Marquee Moon』とリチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズの『Blank Generation』はいずれも1977年にリリースされているが、同年10月には大西洋を挟んだイギリスでセックス・ピストルズが『Never Mind the Bollocks』を発表し全英チャートで1位を記録した。

ピストルズのパトロンでありロンドンでブティック“Sex”を経営していたマルコム・マクラーレンは、ニューヨーク滞在中にリチャード・ヘルのファッションを見て衝撃を受け、これをアレンジしてバンドに着せたと言われる。インパクトやアルバム・セールスの面では、初期のインフルエンサーを後発が喰ってしまったわけだ。

このように“ロンドン・パンク”と“CBGB”界隈のミュージシャンたちは密接な関係にあったが、それでもなおテレヴィジョンが『Marquee Moon』で示した唯一無二の音楽は“パンク”のカテゴリーのみに収容し切れるものではない。

ニューヨークの先達であるヴェルヴェット・アンダーグラウンドやボブ・ディランから受け継いだポエトリー・リーディングの伝統、どちらかと言えばクリーンでミニマルなツイン・ギターの響き、中性的な震えるボーカルなどは、むしろ1970年代後半~80年代前半の音楽シーンを牽引するニューウェイヴ~ポスト・パンク・ムーブメントの先駆と見なすことができ、90年代以降もグランジ~オルタナティブ・ムーブメントの中で再発見されていく。

“パンク”の枠組みにとらわれることなく聴けば、決して商業的な成功を収めたわけでなく、アルバム・デビューからわずか1年余りで解散してしまったテレヴィジョンの音楽がなぜ今も語り続けられるのかを、より理解しやすくなるに違いない。