サザン・ロックを代表するバンド、レーナード・スキナード。その最後のオリジナル・メンバーであったギタリスト、ゲイリー・ロッシントンが2023年3月5日にこの世を去った。今回は彼の偉大なる歩みを足早に紹介するとともに、レーナード・スキナードから多大な影響を受けた次世代のギター・ヒーロー、マーカス・キングの追悼コメントも掲載する。4月の来日公演時に時間をもらい、ゲイリーとの思い出を語ってもらったものだ。
文=福崎敬太 コメント翻訳=トミー・モリー Photo by Scott Dudelson/Getty Images for Stagecoach
2023年4月2日に開催されたカントリー音楽の祭典、CMTミュージックの授賞式で、レーナード・スキナードの「Simple Man」、「Sweet Home Alabama」が演奏された。トリプル・ギターを務めたのは、ビリー・ギボンズ、ウォーレン・ヘインズ、スラッシュ。
1973年に1stアルバム『Pronounced ‘Lĕh-‘nérd ‘Skin-‘nérd』をリリースしてから、1977年の解散までにレーナード・スキナードが生み出した楽曲は、未来永劫歌い継がれる不朽のものとなった。
これらの名曲を、最後のオリジナル・メンバーとして現代まで演奏し続けてきたギタリストが、ゲイリー・ロッシントンだ。そんなサザン・ロック最大の功労者が、2023年3月5日にこの世を去った。71歳だった。
バンドの絶頂期を襲った悪夢
1951年12月4日、ゲイリー・ロッシントンは米フロリダ州ジャクソンヴィルで生まれた。野球にのめり込んだ少年時代、ローリング・ストーンズを聴いたことで音楽に興味を持つ。そして1964年に、地元の野球チームでプレイしていた時、ロニー・ヴァンザントとボブ・バーンズと出会った。
ゲイリーがギター、ロニーがボーカル、ボブがドラムを務め、そこにアレン・コリンズ(g)とラリー・ヤンストロム(b)が加わり、レーナード・スキナードの前身となるバンド、“マイ・バックヤード”が結成された。
当時ゲイリーはブルース・ロックに傾倒しており、ともにギターを始めたばかりのアレンと、ヤードバーズなどのコピーをしていたそうだ。
彼らはバンド名を変えながら活動を続け、1968年に地元のバンド・コンテストで優勝する。ローカル・レーベルからもデビューを果たし、1969年にはバンド名をレーナード・スキナードへと変更。バーなどを周り着実に人気をつけると、徐々にオリジナルのレパートリーを増やしていった。
そして1971年、マネージャーのアラン・ウォルデンが音楽プロデューサーのバリー・ベケットにレーナード・スキナードを売り込み、当時の楽曲をマッスル・ショールズ・スタジオでレコーディングすることとなった。この時に共同プロデューサーを務めたギタリストのジミー・ジョンソンは、“ゲイリーとアレンのギター・サウンドが特に気に入った。まさにギター・バンドだというところに親しみを覚えたよ”と語っている。
翌1972年、MCA傘下の新レーベル“サウンド・オブ・サウス”からデビューさせるバンドを探していた、プロデューサーのアル・クーパーがレーナード・スキナードに目をつけた。そしてついに、1stアルバム『Pronounced ‘Lĕh-‘nérd ‘Skin-‘nérd』を1973年にリリースすることとなる。
そこから破竹の勢いで商業的な成功を収めていくが、1977年10月20日、悪夢が起きた。
それは6作目の『Street Survivors』をリリースした3日後、アルバム・リリース・ツアーに出たばかりだった。メンバーを含むツアー関係者26名を乗せたチャーター機が、ミシシッピ州ギルズバーグ近辺の沼地に墜落。ロニーとスティーヴ・ゲインズ(g)らが死亡、生存したメンバーも重症を負い、バンドは解散を余儀なくされた。
前述した1971年のレコーディング音源が、事故から約1年後の1978年9月5日に『Skynyrd’s First And… Last』(1978年)としてリリースされる。タイトルのとおり、“レーナード・スキナードにとって初めての作品であり……最後の作品”となってしまったのだ。
“レーナード・スキナード”を永遠のものに
忌々しい飛行機事故は、ゲイリーの心身に想像もできないほどのダメージを負わせた。そこで彼を救ったのは、事故から2年後に出会うデイル・クランツという女性ボーカリストだった。
のちにゲイリーの妻となるデイルとの出会いにより、彼は再び音楽活動をスタートさせる。彼女をボーカリストに迎え、アレン・コリンズとともに“ロッシントン・コリンズ・バンド”を結成した。2枚のアルバムをリリースするが、1982年に解散。その後、デイルとともに“ロッシントン・バンド”を結成し、1988年までに2作品をリリースした。女性ボーカルを迎えたことは、ゲイリーにとって“レーナード・スキナードとは違う音楽”をやるという意思の表われだったようだ。
時を同じくして、飛行機事故から10年の節目となる1987年に追悼ツアー(『Southern By The Grace Of God: Lynyrd Skynyrd Tribute Tour 1987』として1988年に作品化)が行なわれた。このツアーが完売続出で大好評を博し、ゲイリーは“ファンたちが俺たちの曲を求めてくれる限り、やり続けようと思った”という。
リリース年をタイトルに冠した復帰第一弾作『1991』のメンバーは、初期メンバーであるゲイリー(g)、エド・キング(g)、レオン・ウィルクソン(b)、ビリー・パウエル(k)のほか、ボーカルにロニーの弟であるジョニー・ヴァン・ザント(vo)など。そこからオリジナル・メンバーが1人、また1人とこの世を去っていってしまうが、彼らはメンバーを補充しながらコンスタントに活動を続けていった。
そして2023年3月5日、最後に残されたオリジナル・メンバーであるゲイリーが逝去。デビュー・アルバムが発売してからちょうど50年の節目だった。しかし、ゲイリーがそうしたように、残されたバンド・メンバーたちは、彼の魂とともに“レーナード・スキナード”という名前を守っていく。これからも彼らの音楽、ゲイリーの生み出したギター・フレーズは次世代へと弾き継がれていくことだろう。
ゲイリー・ロッシントンが遺してくれた音
1971年、ゲイリーは運命のギターと出会う。1959年製のギブソン・レス・ポール・スタンダード、彼のアイコンとなる“バーニス(Bernice)”だ。シリアルナンバーは9 0695。デビュー・アルバム収録の名曲「Free Bird」のスライド・ギターは、ゲイリーが本器で奏でた珠玉の名演の1つだろう。
『Street Survivors』に収録された「You Got That Right」でも、見事なスライド・プレイを披露している。ちなみに、ゲイリーはお気に入りのスライド・プレイヤーとして、デュアン・オールマンとライ・クーダーを挙げていた。
また、ブルース・ロックに根差しながらもキャッチーなギター・リフを作る天才でもあった。「I Ain’t the One」のグルーヴを自在に操るリフや、J.J.ケイルのカバー「Call Me The Breeze」のハードなフレージング、そして世界的なスタンダードとなっている「Sweet Home Alabama」のリフも、そのもととなるフレーズはゲイリーが生み出したものだ。
そんなゲイリーの素晴らしさを若い世代にも伝えるため、記事の最後はこの人のコメントで締めよう。レーナード・スキナードから大きな影響を受け、サザン・ロックを次世代につなぐギタリスト、マーカス・キング。2023年4月に来日した際、ライブ前の楽屋で特別にゲイリーの魅力を語ってもらった。
ゲイリーはリフのマエストロだったんだ。とてもソリッドなギタリストで発明家だった。そしてミシシッピのマーシャルと呼ばれているピーヴィーのアンプを彼は巧みに使いこなしていたよ。
Instagaramにアップした写真は、俺が初めてゲイリーと会った時のものなんだ(編注:2022年11月13日にナッシュビルで行なわれたレーナード・スキナードのライブにゲスト参加した)。
あれ以降も交流を深められたらと思っていた。でも健康状態が良くないというのも知っていたから、彼と一緒に仕事ができたことだけでも嬉しかったよ。
「Saturday Night Special」を一緒にプレイし、俺はソロも弾いた。8〜9歳の頃からずっと弾いていたフレーズだから、よく知っていたんだよね。で、リハーサルでレコードのままに同じフレーズをプレイしたんだけど、ライブ本番で俺はハーモニーの高いパートを弾いたんだ。そうしたら彼はたくさんの愛と暖かさで俺を受け入れてくれた。
残念ながらあれが俺にとって彼に会った最後の時となってしまった。俺たちに自信を与えたら、それを見届けたように去っていってしまったんだ。 でも、俺にとってのヒーローとああいう形で一緒できたことは、人生において本当に大きな意味を持っているよ。
──マーカス・キング