三大キング随一の豪傑ブルースマン、アルバート・キングの生涯(後編) 三大キング随一の豪傑ブルースマン、アルバート・キングの生涯(後編)

三大キング随一の豪傑ブルースマン、アルバート・キングの生涯(後編)

毎週、1人のブルース・ギタリストに焦点を当てて深掘りしていく新連載『ブルース・ギター・ヒーローズ』。今回はアルバート・キングのバイオグラフィー後編。シカゴからセントルイス、メンフィスと、各地に殴り込みをかけ続けた彼のブルース人生を紹介。

文=久保木靖 Photo by Michael Putland/Getty Image

アーバン・スタイルとソウルフルなテイストで掴んだ成功

 心機一転、1956年になると、アルバート・キングは当時アイク・ターナーやリトル・ミルトンの牙城であったセントルイスへ殴り込む。

 1958年には発売になったばかりのギブソン・フライングVを手に入れ(B.B.キングの“ルシール”を意識して“ルーシー”と命名)、その翌年には地元のBobbinレーベルと契約を交わして活動が軌道に乗っていく。ここから続々とシングルがリリースされていき、「Don’t Throw Your Love On Me So Strong」(1961年)はR&Bチャートの14位に達するヒットとなった。

 このBobbin期、アルバートは脳天がかっ飛ぶかのような音程差の大きいチョーキングを前面に押し出したスタイルを完成させ(通常より低くチューニングしていたため、1音半〜2音チョーキングがたやすく行なえた)、また曲によってはブラス・セクションや女声コーラスを導入し、一気にアーバンなスタイルとへと変貌を遂げた。

 そして1966年、アルバートは運命のStax(1957年にメンフィスで設立されたレーベル)と契約するために、1966年にメンフィスへと拠点を移す。

 時代はまさにサザン・ソウル全盛期。Staxはその路線でアルバートを売り出しにかかり、これが結果的に大成功をもたらす。ブッカー・T&ザ・MG’sとメンフィス・ホーンズの強力なサポートを得たアルバートは、シングル曲「Personal Manager」(1967年)をヒットさせると、以後、続々と新曲を送り出していく。

 それらをまとめた『Born Under A Bad Sign』(1967年)はまさに名曲の宝庫。

 ブルース・ロック好きならきっと一度は耳にしたことのある曲が目白押しで、例えば「Born Under A Bad Sign」はクリームやポール・バターフィールド・ブルース・バンドが、「Oh, Pretty Woman」はジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズが、「The Hunter」はフリーが、それぞれ印象的なカバー・バージョンを録音して話題となった。また、面白いのは「As The Years Go Passing By」で、エリック・クラプトンが「Layla」のリフの元ネタがこの曲の歌メロであることを認めている。

 この時期、アルバートはマイナー・ペンタトニック・スケールを主体とした、よりシンプルな(バリエーションの少ない)スタイルへと進化(!?)しており、このストレートな表現がソウルフルな楽曲と共に多くのロック・ギタリストに吸収されていったのだろう。

三大キングの1人はファンキー・ブルースの王様でもあった

 1968年、アルバートはサンフランシスコのフィルモア・オーディトリウムでのジョン・メイオールとジミ・ヘンドリックスのコンサートにオープニング・アクトとして出演。普段ロックを聴いている白人聴衆を、変幻自在のチョーキングを前面に出したパワフルな演奏で圧倒すると、これをきっかけにフィルモアの常連となり、傑作ライブ盤『Live Wire / Blues Power』を録音した。

 ちなみに、アルバートはジミにブルースのレッスンをつけたことがあり、“私はジミの曲を簡単に演奏できたが、ジミはなかなか私のようには弾けなかった”と先輩らしい言葉を放っている。

 その後、スティーヴ・クロッパーやポップス・ステイプルとのジャム盤『Jammed Together』(1969年)や、エルヴィス・プレスリーの曲を集めた『King, Does The King’s Things』(1970年)、ローリング・ストーンズの「Honky Tonk Women」のカバーの入った『Lovejoy』(1971年)と続く。

 『I’ll Play The Blues For You』(1972年)になると、そのヴェルヴェットな歌声と、バックを務めたバーケイズらのメンフィス・サウンドとが相まってメロウなソウル/ファンクへと進化し、それはStax時代最大のヒットとなった「That’s What The Blues Is All About」を収録した『I Wanna Get Funky』(1974年)で1つの完成を見る。

 極めつけは、この頃にインストでカバーしたジェームス・ブラウンの「Cold Sweat」(1970年のシングル曲/1994年リリースの『Funky London』収録)で、シャープなカッティングの上で“えっ、こんなに弾きまくっちゃうの!?”というくらいアルバートのギターが絶叫! 筆者は最初に聴いた時、開いた口が塞がらなかった。

 シカゴ・スタイル→サザン・ソウル・スタイルと来て、ソウル/ファンク・スタイルに活路を見出した形だが、ブルース三大キングの1人は、ファンキー・ブルースの王様でもあったわけだ。

 Staxが1975年に倒産すると、TomatoやUtopia、Fantasyといったレーベルを渡り歩き、ディスコやニューオーリンズのテイストを採り入れるなど、自身にとって新しいサウンドに挑戦していったが、ギター・プレイは頑固一徹、ちっとも変わらなかった。

 1990年にはゲイリー・ムーアの『Still Got The Blues』にゲスト参加し、「Oh, Pretty Woman」をプレイ。ゲイリーの激しいディストーション・ギターに対し、ナチュラルなトーンで存在感を示した。

 そして、ジミ・ヘンドリックス作のブルースを冠し、ジョー・ウォルシュやワー・ワー・ワトソンを迎えて作られた1991年の『Red House』がラスト作に。

 1992年12月21日、ロサンゼルスでのコンサートの2日後、アルバートはメンフィスの自宅にて心臓発作で亡くなった。享年69。葬儀に参列したB.B.キングは“アルバートは、「血縁」という意味では私の兄弟ではなかった。しかし、「ブルース」においては間違いなく兄弟だった”と弔辞を述べたという。