“ペンタ一発”の発明者! モダン・ブルース・ギターの父、T-ボーン・ウォーカーの生涯 “ペンタ一発”の発明者! モダン・ブルース・ギターの父、T-ボーン・ウォーカーの生涯

“ペンタ一発”の発明者! モダン・ブルース・ギターの父、T-ボーン・ウォーカーの生涯

毎週、1人のブルース・ギタリストに焦点を当てて深掘りしていく新連載『ブルース・ギター・ヒーローズ』。今週から、“ペンタ一発”の発明でギターの歴史を変えたモダン・ブルース・ギターの父、T-ボーン・ウォーカーの特集がスタート! まずは、後年のブルースやロックに多大な影響を与えることとなる、彼の一生涯を紹介しよう。

文=久保木靖 Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images

ブラインド・レモン・ジェファーソンの手を引いたダラス時代

“ペンタ一発”……なんと素晴らしい響きか。昨今の多くのロック〜ブルース系ギタリストが最初に身につけるこのアドリブ手法を“発明”し、流通して間もないエレクトリック・ギターを手に大々的に世に広めていった“モダン・ブルース・ギターの父”、それが今回の主人公だ。

T-ボーン・ウォーカー(本名、Aaron Thibeaux Walker)は1910年5月28日、テキサス州リンデンで生を受けた。ニックネームの“T-ボーン”は、母親が彼のミドルネームを“Tebow”と呼んだことに起因。

ギターの名手だった母親は夫と離婚しダラスへ移り、再婚。その義父は様々な弦楽器を弾きこなす才能があった。家にはブラインド・レモン・ジェファーソンやレッドベリーが出入りするようになり、T-ボーンもギターを始め、バンジョー、バイオリン、ピアノなどに幼い頃から親しんだという。

そんなT-ボーンが夢中になったのは、リロイ・カーやスクラッパー・ブラックウェル、ロニー・ジョンソンといった都会的に洗練されたブルース。一方で、家族ぐるみの付き合いとなっていた(盲目の)ブラインド・レモン・ジェファーソンの手を引いて街角やバーなどを案内したという。

ギターに専念し始めたのは高校時代。16歳頃までにはプロとしてそれなりに生計を立てていたようだ。ダンスの才能もあったT-ボーンは、タレント・ショーやカーニバル、パーティーなどでパフォーマンスを行ない、その才能が認知されてブルース・シンガー、アイダ・コックスのツアーにも参加している。

そして1929年、T-ボーンはキャブ・キャロウェイ主催のコンテストで優勝し、彼のバンドに短期間参加。これで知名度を上げ、オーク・クリフ・Tボーン名義でコロムビア・レコード(Columbia Records)にて初録音を果たす。ピアノとのデュオで演奏されたその2曲、「Trinity River Blues」と「Wichita Falls Blues」はアコースティックなシティ・ブルース風味で、まだプリミティブながらT-ボーンのシングル・ノート奏法もしっかりととらえられている。

ブルース・ギターの歴史を変えた大発明で確固たる地位を獲得

レジェンダリーなブルース・シンガー、マー・レイニーとの公演を始め、様々なバンドやレヴューでツアーを行なうようになったが、そんな中、“モダン・ジャズ・ギターの父”、チャーリー・クリスチャンとの交流は特筆すべき事柄だ。2人の奏法には、シングル・ノートやコード弾きでの9thや6thの多用、異弦同音フレーズなど共通点が多く、互いに刺激し合っていたことが容易に想像される。

ジャズとブルースの最初の偉大なエレクトリック・ギタリストがメジャー・デビュー前に一緒に演奏していた事実を偶然ととらえるか、必然ととらえるか。T-ボーンが在籍していたローソン・ブルックス・オーケストラを脱退してロサンゼルスに移った時、その後釜に収まったのはクリスチャンだった。

1934年には、ヴァイダ・リーという女性(のちに歌詞や曲名に登場)と結婚し、やがて3人の子供を授かる。1935年前後にロサンゼルスへ移ると、ナイトクラブで歌やギター、バンジョー、タップ・ダンスを組み合わせたアクロバティックなパフォーマンスで観客を魅了したという。トレードマークとなった頭のうしろでのギター弾きや、股割りアクションを導入したのはこの頃ではないだろうか。

T-ボーン・ウォーカー
Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images

そんな中、エレクトリック・ギターの噂を耳にすると(ギブソンが最初のエレクトリック・ギター、ES-150を発売したのが1936年)、温めていた計画──ホーン楽器やボーカルのようにシングル・ノートでメロディを弾く──の研究を本格化させる。しかし、1939年までにエレクトリック・ギターを入手したT-ボーンが、レス・ハイト楽団をバックに歌った「T-Bone Blues」(1940年)ではボーカルのみだった。

そしてついに1942年、T-ボーンにとって、いや、ギター界にとって将来を大きく変えるレコードが、当時新興だったキャピトル・レコード(Capitol Records)からリリースされる。流麗でエレガントなギター・ソロとメロウで艶のあるボーカルがフィーチャーされた「I Got A Break Baby」と「Mean Old World」だ。ここで初めてエレクトリック・ギターを披露したT-ボーン。2曲ともいきなり2コーラスにわたるギター・ソロが飛び出すが、これは“この新しい奏法はどうだ!”という自信の表われにほかならない。

それまでコード・チェンジごとにコード・トーンを弾いていくというアドリブがおもだったブルース・ギターにおいて、1つのスケール(マイナー・ペンタトニック・スケール、時にM3rd、6th、9thを付加)を同じポジションで弾き続けるという驚きの手法を提示した。

この画期的な奏法に、のちのゲイトマウス・ブラウンらテキサス出身者はもとより、B.B.キングなどモダン派も“右へ倣え”となり、ひいてはチャック・ベリーなどを経由してロック・ギターにも大きな影響を与えることとなる。

充実の1940〜1950年代、そして再起を賭けたファンキー路線

シカゴのラムブギー・レーベル(The Rhumboogie Label)での録音(豪快なテキサス・ジャンプで凄い!)を経て、1946年からT-ボーンは再びロサンゼルスを拠点に、ブラック・アンド・ホワイト・レコード(Black & White Records)などにレコードを吹き込む。

「Bobby Sox Blues」や「West Side Baby」といった多くのヒット曲が生まれるが、最も有名なのは、ブルースの大スタンダードとして定着することとなる「Call It Stormy Monday(But Tuesday Is Just As Bad)」であろう。T-ボーンはこの時期の活躍を通して、洗練されたブルースマンとして確固たる地位を確立した。

ちなみに、「Call It Stormy Monday」由来の“ストマン進行(7〜8小節目が特徴的なブルース進行)”だが、オリジナルのT-ボーンはそのコード進行では演奏しておらず、最初に取り入れたのはシンガーのボビー・ブランドと言われている。

1950年代はインペリアル・レコード (Imperial Records)やアトランティック・レコード(Atlantic Records)と契約し、Black & White期に匹敵するクオリティの演奏を数多くレコーディング。そして1960年代は、渡欧をきっかけに白人の聴衆の喝采を浴びることに。テレビ番組への出演のほか、カリフォルニア州モントレー、フランスのニース、スイスのモントルーで開催されたジャズ・フェスティバルなどへ参加し、人気を博した。

筆者が観た映像の中では、1962年のアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルでヘレン・ヒュームズ(vo)から“マスター・オブ・ザ・ギター”と紹介されて登場するシーンが印象深い。技術的に難しいフレーズを弾くわけではないにも関わらず、ミュージシャン仲間から尊敬を集めていることがうかがえた。ギターのボディを床と平行に近い角度で弾く姿も非常にかっこいい。

さて、折からのブルース・リバイバルもあり、新たな活躍が期待されたが、胃潰瘍を患っていたこともあり、残念ながら活動は鈍化。そんな中、再起を賭けて挑んだのがファンキー路線だった。メル・ブラウンの16ビート・カッティングをバックに、『Stormy Monday Blues』と『Funky Town』(共に1968年)を発表。持ち歌を当代風にアップデートしたサウンドで健在ぶりをアピールした。

後年は、グラミーを受賞した『Good Feelin’』(1969年)や、一流のジャズマンやセッション・ミュージシャンが集結しT-ボーンを称えたLP2枚組『Very Rare』(1973年)などをリリース。しかし、1974年からは体調を崩し、入退院をくり返した。そして、1975年3月16日、脳卒中と気管支肺炎のためロサンゼルスの自宅で逝去。享年64であった。

T-ボーン・ウォーカー
Photo by Chris Morphet/Redferns/Getty Images