2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。
文=田中 稔
第7回
1970年代の楽器シーン ①
60年代後半のエレキ・ギター・シーンは、GSブーム(67~69年)によって大きな盛り上がりをみせ、日本中の若者達が熱病に侵されたかのように “テケテケテケ……” とエレキ・ギターを弾いていた。当時日本で生産されていたエレキ・ギター(グヤトーン、テスコ、エルク、ヤマハなど)は、フェンダーやギブソンの影響を受けながらも、オリジナル・デザインのモデルが多く、個性的でユニークな製品が大半だった。
60年代末にGSブームが急激に終息した頃から、日本でもフェンダーやギブソン、マーティンなどの海外ブランドのギターが少数輸入されるようになった。しかし70年代半ばまでは、輸入ギターは極限られた大手楽器店で少数扱っていた程度で、ショーケースの中にひっそりと陳列されていた。それらの高級輸入ギターは、アマチュアのギター少年が気軽に試奏できる状況はなく、ただただショーケースの中を食い入るように見つめるしかなかった。
どんな情報も簡単にネットで検索ができる現在とは異なりネット環境が皆無だった70年代は、海外ミュージシャンがどのような楽器を使用しているのかを知ることはなかなか大変だった。レコードジャケットに写っている小さなアーティストの写真や『ミュージュク・ライフ』などの洋楽系音楽雑誌のピンナップなどが情報源の大半で、裕福な人でなければ来日公演の際に使用された機材を直接確認することなどままならなかった。唯一の例外だったのが、当時NHK総合で放映されていたTV番組『ヤング・ミュージック・ショー』(1971~86年)で、海外のロックシーンやライブ映像などを放映し、一部のコアな洋楽ファンやギター少年がこぞってテレビにかじりついていた。
70年代のアマチュア・ギタリスト達は、ギターの演奏やテクニックに関するわずかな知識を友人達と共有していた。当時はロック・ギターの教則ビデオやDVDはまだ発売されておらず、教則本もあまり充実していなかった。都市であればギター教室はあったが、その大半はクラシックを中心とした内容で、エレキ・ギターに憧れていながら泣く泣くクラシック・ギターの基本から教え込まれるという不条理を味わった人も少なくなかった。そんな時代にギターを1曲マスターするのは一苦労で、レコードをすり切れるほどくり返して聴きながら自分で1音1音耳コピしていくのが基本だった。コンパクトなカセット・テープレコーダーが普及し、聴きたいところを何度でもくり返して聴けるようになったのは80年代のことである。
一般的なアマチュア・ギタリストはエレキ・ギターに関する専門的な知識がほとんどなく、ストラトキャスターとテレキャスター、プレシジョン・ベースとジャズ・ベース、レス・ポール・スタンダードとレス・ポール・カスタムの違いを正確に知るギター少年は少なかった。ギタリストはギターに関する情報に常に飢えていて、「渋谷ヤマハにストラトが入荷したらしい……」という噂を訊けば、友人を誘って見に行った。
そんな時代に、『Player』では「フェンダー特集」や「レス・ポール特集」などをすでに掲載しており、一部のギターファンの注目を浴びていた。また、グレコの発売元である神田商会は『成毛滋 グレコ・ロックギター・メソッド』(カセット音源付)を73年からエレキ・ギターの付属品としてユーザーに提供した。このメソッドは当時ギターユーザーの間で大きな反響を呼んだが、これを製作したのもプレイヤー・コーポレーションの系列会社である赤星ミュージカルスタジオだった。




プロフィール
田中 稔(たなか・みのる)
1952年、東京生まれ。1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。現在フリーランスの編集者として活動中。アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。