2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。
文=田中 稔
第19回
編集スタッフ:関原幸男、奈良瑠美子
私が1975年にプレイヤーに入社した当時のメンバーについて紹介しているが、前回の河島彰編集長に続いて、関原幸男氏と奈良瑠美子氏を紹介しよう。
当時の副編集長は関原幸男氏だった。関原さんは私より1歳若かったが、楽器に関する知識が豊富で『Player』の楽器関連記事のほとんどを担当していた。ひょうきんで社交的な河島さんとは対照的で、いつも黙々と机に向かい真面目でおとなしい性格だった。楽器に関してはとても勉強家で、常にいち早く楽器のニュースをチェックし、誌面に記事として活かしていた。当時の『Player』の楽器に対するこだわりは、河島編集長というより、むしろ関原副編集長のそれだったとも言える。のちに『Player』のハードウェア関連の人気連載企画となる“ザ・ギター”コーナーの発案も関原さんだった。
彼は楽器演奏も得意で、入社後4~5年でプレイヤーを退社したが、その後、元ワイルドワンズのドラマー、植田芳暁率いるサーフ・ポップ・バンド、ザ・サーフ・ライダースのベーシストとしてメジャー・デビューを果たした。プロ・ミュージシャンとしての活動後は、楽器の知識が活かせる神田商会に就職し、80年代はフェンダー・ジャパンの中心メンバーの1人として、ギターやベースなどの製品開発にも携わった。豊富な知識とミュージシャンとしての経験を活かし、いくつものヒット・モデルを世に送り出したが、フェンダーにモダンなデザインを投影したエアロダイン・ジャズ・ベースの開発も彼のキャリアの1つである。
編集者の奈良瑠美子さん(当時は旧姓の戸井田瑠美子と名乗っていた)。彼女は私と同じ1952年生まれで、山中さんを除いて唯一の女性スタッフだった。おっとりしたおとなしい性格だが、とにかく真面目で正義感が強く、真っすぐな人だった。話好きの河島さんが仕事中に雑談の話題を振ると、みんな仕事の手を止めてすぐにその話題で盛り上がり、なかなか仕事に戻らないこともしばしばだったが、そんな時は“も~、いい加減に仕事したら~”と笑いながら注意を促すのはいつも彼女だった。
彼女は当時、神田商会の企画室長だった奈良史樹氏と結婚し、おめでただったこともあり、私が入社して半年ほどでプレイヤーを退社したため、私と勤務が重なった期間は短かった。しかし私は奈良史樹氏とは気の合う遊び仲間で、奈良夫妻とはプライベートで度々会っていたこともあり、50年経過した今日でも奈良瑠美子さんと連絡を取ることがある。
当時の編集スタッフ4人は、とにかく仲が良かった。一般的な会社のような上下関係はあまりなく、和気あいあいとおおらかに仕事をし、お昼や夕食をみんなで一緒に食べ、夜遅くまで残業した。当時はすべてサービス残業だったが、それを不満に思う人は誰もいなかった。給料はかなり安かったが、残業の日は会社で夕食代が支給されたので、正直それは助かった。
仕事柄ライブを観に行くことは多かった。なかなかお目当ての人気アーティストや来日アーティストのライブに行けることは少なかったが、関係者としてライブを観覧できることは本当にありがたく、プレイヤーに勤めていることの大きなメリットの1つでもあった。
当時4人の編集スタッフのうち、結婚をしていたのは奈良瑠美子さんだけだったが、時にはそれぞれのパートナーを連れてどこかに遊びに行ったり、休みの日に自宅に呼ばれたりすることもあり、パートナー同士も親しい間柄だった。



著者プロフィール
田中 稔(たなか・みのる)
1952年、東京生まれ。
1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。
以後はフリーランスの編集者として活動し、2025年4月、クラプトンに魅せられた10人のE.C.マニアのクラプトン愛を綴った『NO ERIC, NO LIFE. エリックに捧げた僕らの人生.』(リットーミュージック発刊)を制作。2025年9月、電子マガジン「bhodhit magazine(バディットマガジン)」の名誉編集長に就任。
アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。