ギルド・ギターズの誕生から現在までをふり返る短期連載『今ふり返る、ギルド・ギターズの正しい歴史』。第6回はギルド躍進の立役者の存在と、当時の日本の音楽シーンのふり返り。そして、順風満帆に思えたギルドを突如悲劇が襲う……。
文=長谷鉄弘 デザイン=三本昌樹 写真=星野俊
創業者の息子マーク・ドロンジの辣腕
ジョン・デンバーやマディ・ウォーターズなど、1960年代後半~70年代にかけて、音楽ジャンルや国籍を問わず多くのプロフェッショナルがギルドを愛用するようになった。その背景のひとつとして、マーク・ドロンジの仕事を忘れるわけにはいかないだろう。
ギルドの創業者であるアル・ドロンジと、最初の妻であったドロシー(1943年に病死)の間に生まれたマークは、マンハッタン時代から父の工場を遊び場として育ち、大学卒業後の1960年にギルドへ入社した。1950年代にアルが築いたジャズ・シーンを中心とするアーティスト・リレーションを受け継ぎ、これをフォークやブルース、カントリー、ロックといった多彩なジャンルへ広げたのは若きマークの功績であったと、関係者は口々に語っている。
またマークはのちに弦メーカーであるDRストリングスを設立し、現在にいたるまで多くのプロ・ギタリストたちから信頼を得ている。ビジネス的な手腕もアルから引き継いだようだ。さらに、2025年からはギルドのUSA製ギターには工場出荷時にDR弦が張られているのも、ひとつのドラマとして覚えておいてほしい。
さて、ここ日本において、ギルド・ギターズに正式なディストリビューターがついたのは1970年代前半頃と思われるが、それ以前から個々の楽器店が直接、製品を輸入する事例もあったようだ。同時期の日本では、おもに“団塊の世代”と呼ばれた戦後生まれの若者たちが英米のユース・カルチャーから影響を受けつつ自らの主張を発信し始めており、音楽シーンにおいてはいわゆる“和製フォーク”がブームの最盛期を迎えていた。
当時の日本のギルド・プレイヤーとしては、D-50を愛用した岡林信康(彼の愛器はのちにムーンライダーズに在籍した故・椎名和夫の手を経て山下達郎へ受け継がれた)と、『御免』(1975年)のジャケットをD-55とともに飾った井上陽水が有名だ。ギルド・ギターを抱えた彼らの姿は、その音楽やライフ・スタイルに憧れる後進たちへ鮮烈な印象を与え、日本における同ブランドの知名度を高めている。
創業者を襲った悲劇的な死
このように、1970年代前半は過去約20年にわたり成長を続けてきたギルド・ギターズが企業として安定期を迎えた時代であったが、その最中にあって大きな悲劇が起きてしまう。アル・ドロンジの死去である。
アルはかねてより自家用飛行機のライセンスを持っており、当時の居宅の1つがあったニューヨーク州からロード・アイランド州ウェスタリーまで、約230kmの距離を自らの操縦でフライトすることがあった。1972年5月3日もそんな日で、ビーチ・エアクラフト社の双発レシプロ機“ビーチクラフト・バロン”の操縦席に座った彼は、ニュージャージー州テターボロ(Teterboro)空港を飛び立ちウェスタリー空港を目指している。
しかし、この日は目的地周辺の天候が悪く、アルは管制から他空港への着陸を進言された。予備の燃料タンクを装備していなかったため飛行時間の制約も抱えていた彼はコネティカット州トランブル(Trumbull)空港への着陸を決断するが、アプローチは失敗し、滑走路を数十メートルにわたってオーバーランした機体は池に飛び込んでしまう。
アルの死亡は事故現場にて確認されており、墜落時に受けた激しい衝撃を物語る頭蓋骨骨折などがその死因として挙げられた。経験豊富なパイロットだった彼だが、慣れない空港への着陸で操縦を誤ったのか。いずれにせよ、1952年の設立から一貫してギルド・ギターズ社の舵をとり、自ら育て上げた多くの従業員だけでなく、関わりを持ったミュージシャンたちからも慕われたこの傑出した経営者は、齢61にして世を去ったのである。
著者プロフィール
長谷鉄弘(ながや・てつひろ)◎1970年生まれ。『ギター・マガジン』、『ギター・グラフィック』(いずれも小社刊)などの編集部員を経て1996年に独立。現在はライターとして、『ギター・マガジン』や『アコースティック・ギター・マガジン』、『The Effector Book』(シンコーミュージック)などに寄稿。

