ブルース・ロックからハード・ロックへと移行する当時のブリティッシュ・ミュージックの流れに乗らず、ソウル/ファンク路線に舵を切った経緯はどのようなものだったのだろうか? まずはジェフ・ベック・グループの“第2期”が一体何なのかを知るために、そのメンバー構成や結成当時のエピソードを紹介していこう。
文=久保木靖
ブルース・ロックとの決別、そしてソウル/ファンク路線へ
1971年10月、『Rough And Ready』のリリースによって第2期ジェフ・ベック・グループ(以下JBG)の全貌が顕になった。“我が儘ギタリストの気まぐれ作品”などと過小評価された時期もあったが、リリースから50周年を迎えた今となっては、その評価はまったくの的はずれであったと言わざるを得ない。“ブルース・ロック→ハード・ロック”こそがエポックメイキングであると信じられていた1970年代初頭に、黒人ミュージシャンを加えてソウル/ファンク路線を打ち出す……これによって同ジャンルとロックの融合をうながすと同時に、ロック・ギタリストに新たな表現法を提示したからだ。ベックのストラト・サウンドによるダブル・ストップや6度音程フレーズを聴くにつけ、昨今ブームとなっているネオ・ソウル・ギターとの共通点を見出してしまうのは筆者だけではあるまい。
第1期JBGの『Beck Ola』リリースから約5ヵ月後の1969年11月2日、ベックはロンドン南西に位置するケント州メイドストーン周辺をカスタムメイドのT型フォードでドライブ中に事故を起こし、長期入院を余儀なくされる。これにより、第1期JBGを解散してまで進めていたティム・ボガート、カーマイン・アピス、そしてロッド・スチュワートとの新プロジェクトは頓挫。退院後も激しい吐き気や頭痛に苛まれ、加えて騒音に対する拒絶感まで抱くようになったという。
その症状の為せる技なのか、ベックは当時アメリカを席巻していたフラワー・ムーブメントやドラッグ・カルチャーを嫌悪し、大音量化していたロックには背を向けた。そして、第1期JBG結成当初にロッド・スチュワートと語り合ったフォー・トップスやテンプテーションズを思い返し、さらにはマーヴィン・ゲイやダイアナ・ロス&ザ・スプリームス、そしてのちに交流を深めていくスティーヴィー・ワンダーといったR&Bポップスへの憧憬を募らせていく。
“無秩序なモータウン・サウンド”を実現するメンバー
完治したベックはさっそく新バンド編成へ。まずはオーディションでコージー・パウエル(d)が決まるが、これに関しては、桁はずれのパワーを誇示していたレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムに焦がれた側面がある。その後メンバー探しが難航する中、1970年6月にはコージーを連れてデトロイトのモータウンへ殴り込み。ジェフの頭の中にはモータウンのヒット曲をギター・インストで演奏するという構想があり、実際に同スタジオにて数曲を録音。しかし、それらは幻のテイクになってしまう。
最終的に残りのメンバーは、クライヴ・チャーマン(b)、マックス・ミドルトン(k)、ボブ・テンチ(vo)という顔ぶれに決まった。採用の決め手は、クライヴの“ジェームス・ジェマーソン風のベース・ライン”と、ボブの“ウィルソン・ピケットやテンプテーションズのデヴィッド・ラフィンを彷彿させるソウルフルな方向性”だった。フェンダー・ローズとホーナー・クラヴィネットの名手であり、作曲能力にも長けたマックスはバンドの音楽監督的なポジションを担う。彼はジャズが持つポテンシャルをジェフへ伝えるという、これまた重要な役割も演じていくのだ。
こうしてそろったメンバーで作られたのが『Rough And Ready』。自虐的なタイトルだが、その実、“粗削り”に聴こえるように綿密に練られているフシもある。ジミー・ラフィンの『Ruff’n Ready』(1969年)にちなんだだけなのかもしれない。いずれにしても、モータウンのようなソウル/ファンクを感じさせつつも、ジャズ・ミュージシャンのごとく各メンバーが主張し合うことで、(モータウンにはない)特異な緊張感が生み出されている。