私とデヴィッド・リンドレーと、テスコと沖縄音楽と。 私とデヴィッド・リンドレーと、テスコと沖縄音楽と。

私とデヴィッド・リンドレーと、テスコと沖縄音楽と。

惜しまれつつも2023年3月3日にこの世を去った、デヴィッド・リンドレー。ビザール・ギターの愛好家でもある彼にとって、その嗜好を分かち合える無二の友が日本にいた。伊藤あしゅら紅丸。イラストレーター、クリエイターであり、ビザール・ギターのコレクターでもある。リンドレーの来日公演では毎回公式アートワークを担当し、公私ともに深いつながりがあった人物だ。今回はそんな彼に、リンドレーにまつわる貴重なエピソードを綴ってもらった。

文/写真提供=伊藤あしゅら紅丸

“バケモノ1号”と“バケモノ2号”の出会い

すでに多くの方がご存知のとおり、マルチ楽器奏者であり、スタジオマンとしても有名だったデヴィッド・リンドレーが3月3日金曜日に亡くなった。

私は、1977年の初対面からずっと“化け物1号、2号”と呼び合い、ビザール・ギターなどの楽器の情報も交換しあった仲だったので、本当にショックであり、いまだに信じたくない気持ちではある。

彼のプレイスタイルや、特徴的なフレージング組み立てについては、小川真一氏の原稿に譲って、私はビザール・ギターに関する話や沖縄音楽への傾倒についての話をさせていただくことにする。

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リットーミュージックから2019年に出版された麻田浩氏の著作『聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事』に収録されている私の追補「◎伊藤あしゅら紅丸の証言」にも書かせてもらったが、彼との最初の出会いは、当時トムス・キャビンでアートワークを請け負っていた私が(なぜか)彼らを大阪へ連れて行くという役目をおおせつかったことに始まる。

1977年にジャクソン・ブラウンの“「プリテンダー」ツアー”で初来日したリンドレーだが、同年7月24日に開催された“大阪ポップ・フェスティバル”出演のためにテリー・リードと出演するためにやって来た。

羽田から直行して来た2人と東京駅の新幹線ホームで対面。初対面ながら、私とリンドレーはともに超ロング・ヘアーの風体で意気投合し、この時リンドレーが“俺はバケモノだから、君はバケモノ2号だ!”と言ったことが長い親交の始まりだった(ロサンゼルスの東宝ラブレア劇場で日本の時代劇を多数見ていたそうで、そこで“化け物”という言葉を知ったそうだ)。

会場は大阪南港、当時開発中だった大阪玉出の特設会場。フェスの当日、ステージ・サイドにいたリンドレーの顔色が変わる。久保田麻琴と夕焼け楽団の「はいさいオジサン」を聴いて、それまで聴いたことのない沖縄グルーヴに触れてショックを受けたのだ。

“なんだ、この音楽は!?”

まだ情報の少なかった時代である。本土でもやっと話題になり始めた沖縄音楽は、リンドレーにとっては特に衝撃だったに違いない。

さらに、この時出演してた河内家菊水丸の「河内音頭」にも触れ、今度はそのサウンドとギタリストに目がいく。

“なんだ、あのギターは!?”

当時の菊水丸氏のギタリストはテスコ(Teisco)のK-3Lを使っていたのだ。

そんなわけで、東京に帰る新幹線の中では、私が沖縄音楽とテスコ・ギターのインスタント・レクチャーをすることになり、3時間ずっと喋りっぱなしになった。これを麻田氏に伝え、彼のセッティングで、久保田麻琴氏に会ってさらに深い知識を得たあと、帰国してライ・クーダーなどに沖縄音楽とテスコを伝授したようだ。

1989年5月の来日公演時に撮影。左から伊藤、リンドレー、イアン・マクレガン(k)。
1989年5月の来日公演時に撮影。左から伊藤、リンドレー、イアン・マクレガン(k)。

日本製ギターがつないだ長きにわたる友情

もともと業界スタンダードなギターに飽き足らず、数々のギターを探し求めていたのがリンドレーとライで、テスコはそんな2人にピタリとハマったのだろう。

1979年にクーダー&リンドレーで来日したおりには“今、テスコ・ギターを探して試しているんだ。ピックアップが何種類かあるよね?”と質問された。TRG-1などに搭載されているゴールド・フォイルと、TG-64などの軍艦タイプ、K-4Lの角形タイプのことで、この段階で、それぞれの特色をすでに把握していたのには脱帽。好奇心と探究心が旺盛な男だった。

※その後、リンドレーがライにプレゼントしたストラト・ボディとテスコのTRG-1から、今の“クーダー・キャスター”が作られたのはよく知られた話。さらにライの有名なダフネ・ブルーのストラトは、数々のピックアップが試された末に、最終的に、私がプレゼントしたグヤトーンのLG-50Bのピックアップとビグスビー製スティール・ギターのピックアップが搭載された。やはり2人共、探究者。

1980年のジャクソンの“ホールドアウト・ツアー”で来日した際には、我が家まで遊びに来てくれたが、そこでも壁にかかったギターを仔細に見わたし、特にスプレンダー(Sprender)のバンジョー型エレキに興味津々。

河合楽器製作所が生み出したスプレンダーのCB-2V。
河合楽器製作所が生み出したスプレンダーのCB-2V(提供=伊藤あしゅら紅丸/撮影=西槇太一)。

で、さっそくアンプを引っ張り出し、サウンドをチェック! ただ、“テスコのピックアップが持つマイクロフォニックにレゾナンスがないなぁ”と残念がっていた。また、ローランドのJazz ChorusとBOSSのエフェクターを使用している彼らしく、当時多数出ていた日本製の空間系エフェクターも何種類か試して、パールのフランジャーを気に入っていたのも懐かしい。

1990年のボブ・ディランの「Most of the Time」のセッションでリンドレーは、日本のソングバードの遠藤雅美氏からプレゼントされたオリジナル・ビザールSPギターを弾いていて、ディランは(おそらくリンドレー所有の)テスコのK-4Lを持っている。それはMVにも収録されており、全員のコスチュームはヨウジヤマモトのスーツ。いつものポリエステル・スタイルではないリンドレーが見られる。

その後も、現在にいたるまで来日するたびに、ギターの情報交換や、時には実物の楽器交換をとおして、ライとリンドレーの2人とは親交があった。特にリンドレーはホテルなどでスライド・プレイを教えてくれ、ナショナルのラップ・スティールもプレゼントしてくれた。

彼の最後のソロ・アルバムとなった『Big Twang』(2010年)では、2005年来日時に私が描いた日本公演のポスターの絵を使いたいと言ってきてくれた。

アルバム『Big Twang』のジャケットとして使われた、2005年来日時のアートワーク。
アルバム『Big Twang』のジャケットとして使われた、2005年来日時のアートワーク。(提供=伊藤あしゅら紅丸)

トムス・キャビンで招聘した来日のたびに、公式アートは私が担ってきたが、2003年のウォーリー・イングラムとのツアーでのアートワークで彼が認めてくれて“Oh! とうとう本物のアーティストになったね!”と言ってくれた時は、絵もうまかった彼が認めてくれた!と嬉しかったのでよく覚えている。

2003年にウォーリー・イングラムと来日した際のアートワーク。
2003年にウォーリー・イングラムと来日した際のアートワーク。(提供=伊藤あしゅら紅丸)

底抜けに明るく、ファッション・センスなどから、奇天烈なミュージシャンと思われていたデヴィッドだが、その実像は慎み深く、常に人を思いやっていた男だった。

それは彼のスタジオ・ワークにも反映されている。決して出過ぎず、強引なソロ・プレイに走るなどということはないのだが、彼のプレイなしでは曲が物足りなく聴こえてしまう、というセッションマンの鏡のような存在だった。

この辺は、やはり最近逝去してしまったデヴィッド・クロスビーが2013年にローリング・ストーン誌に語っている。

“彼に何を演奏するか指示する必要はなかった。彼は旋律を奏で、決して邪魔はしないようにしたんだ”──デヴィッド・クロスビー

このあたりには、逝去に際してのご家族の声明文でも触れられているが、私に接する時も、常に真摯でありながらジョークも連発して和ませてくれた。

リンドレー家からの公式声明

デヴィッド・リンドレーが3月3日(金)、短期間のホスピスケアを受けていたカリフォルニア州ポモナで逝去しました。

(中略)

彼は出不精で、人付き合いよりも楽器を弾くことを好んでいました。しかし彼は、メールでも、街中で声をかけられた時でも、ライブ会場でも、近づいてくる人たちに寛大で親切に接しました。誰に対しても優しい人だったのです。

(後略)

Dynamic Artist Management/デヴィッド・リンドレー公式ページ(英語)より引用(訳=編集部)

今は、『Big Twang』のアートワークと彼からもらったナショナルのラップ・スティール、そしてラップ・スライドを教えてくれた時にもらった、スティーヴンス(STEVENS)のスライド・バーが大切な宝物。

彼の素晴らしい音楽とプレイは数々の音源や映像で楽しむことができる。その意味で、彼は不滅なのだ。

2002年の来日公演時。左からリンドレー、伊藤、ウォーリー・イングラム。
2002年の来日公演時。左からリンドレー、伊藤、ウォーリー・イングラム。
伊藤あしゅら紅丸(左)、デヴィッド・リンドレー(右)
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