毎週、1人のブルース・ギタリストに焦点を当てて深掘りしていく新連載『ブルース・ギター・ヒーローズ』。今週から、ブルース三大キングの1人、フレディ・キングの特集がスタート! まずは、彼がギターと出会い、シカゴでブルース漬けの日々を送ることになるまでの半生を紹介しよう。
文=久保木靖 Photo by Echoes/Redferns
綿花摘みの仕事で入手したお気に入りのギター
インスト・ナンバーで女性ダンサーを狂ったようにシェイクさせたかと思えば、スロー・ブルースでは汗と唾を飛び散らしながら熱唱。横っ腹に構えられたギターのストラップは、たすき掛けではなく右肩にちょこんと引っ掛けられ、右手指先に注目してみると、サム・ピックとフィンガー・ピックで弦を爪弾くようにプレイしているが、チェリー・レッドのギブソン製ES-345から放たれる太く歪んだサウンドはドライヴ感満点だ。
アメリカのR&B専門のテレビ番組『The!!!! Beat』(1966年)のアーカイブには、そんな伝説的なライブ・パフォーマンスが残されている。その豪快なプレイ・スタイルから、彼はテキサス・キャノンボールと呼ばれていた──。
フレディ・キング(出生名はフレデリック・クリスチャン)は1934年9月3日、テキサス州ギルマーに生まれた(3大キングの中でもっとも若く、ほかの2人に比べ一世代ほどあとになる)。
誕生以前、祖父(ネイティブ・アメリカンのチョクトー族)はフレディの母親に対し、“お前は、何百万という人々の心をかき乱し、同世代に大きな影響を与えることになる子供を授かるだろう”と言っていたとか。恐るべし、ネイティブ・アメリカンの予言!
幼い頃からカントリー・ミュージックに親しんだフレディだったが、6歳の時、母親とその兄弟の教えでギターを始めると、やがて地元テキサスのブルース・マンであるライトニン・ホプキンスやブラインド・レモン・ジェファーソンのほか、アーサー・クルーダップやビッグ・ビル・ブルーンジー、そしてジャンプ・ブルースの人気者ルイ・ジョーダン(vo, sax)に魅了されていく。
彼は、カントリー・ブルース・スタイルを模倣していくうちに自然と指弾きのスタイルを習得したと思われる。また、ジョーダンのレコードをくり返しかけては、同じタイミングで弾けるようになるまで必死で練習したというから、流麗なフレーズの起源はこのあたりにありそうだ。
フレディが最初に手にしたギターはSilvertone製アコースティック・モデルだった。
やがて新たな1本を欲した時に母親に相談すると“新しいギターが欲しいなら、働かなければならないわよ”と言われ、彼は資金が充分に貯まるまで綿花摘みの仕事をしたという。
そうして雑貨店で取り寄せたHarmony製のRoy Rogers(ボディ・トップにカントリー・シンガー、ロイ・ロジャーズのステンシルのあるアコースティック・モデル)がどれほど誇らしかったことか。
そして1949年、フレディが高校を卒業したタイミングで、先に移住していた母の兄弟たちを追うように一家はシカゴへと移った。
刺激に満ちたシカゴでのブルース漬けの日々
1950年代初頭、時代はまさにシカゴ・ブルースが百花繚乱のごとく咲き乱れる前夜。ブルースの聖地となりつつあったそんなシカゴにやってきたフレディの生活は刺激に満ちたものだった。
ある時友人と、クラブに潜り込むだけでなく、バンドに飛び入りしてギターが弾けるかどうかを賭けた。まんまと賭けに勝ったフレディだったが、まだ未成年だったために、クラブのオーナーに見つかり叩き出されそうに。
その時、“そいつはウチのヤツだ”と助け舟を出してくれたのが、なんとハウリン・ウルフだったとか。フレディのプレイを気に入ったウルフは、“ブルースを弾くために、神様がお前をここに導いたんだ”と励ましたという。
ここから芋づる式にエディ・テイラーやジミー・ロジャース、マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、エルモア・ジェームスらシカゴのオールスターズとでも言うべき面々との交流も生まれていく。マディのサイドメンとジャムることもあったという。
そんな中、エディ・テイラーがフレディに樹脂製のサムピックと金属製のフィンガーピックの使い方を教えたようだ。
1952年にフレディはテキサス出身のジェシー・バーネットと結婚。彼女はフレディが作るいくつかの曲のインスピレーションとなり、また、共作することにもなる存在だ。
所帯を持ったフレディは、昼は製鉄所で働き、夜はクラブのギグに顔を出すという生活パターンになっていった。
ウエスト・サイドの店、タヴァーンから出演の依頼を受けた際には、ジミー・リー・ロビンソン(g)とソニー・スコット(d)とともにジ・エヴリー・アワー・ブルース・ボーイズというトリオを組んで挑んだという。
そして1956年、地元のマイナー・レーベルであるEl-Beeで初リーダー・セッションが組まれ、「Country Boy」と「That’s What You Think」の2曲が録音された。
ギターはロバート・ロックウッド・ジュニアが担当し、ドラム・セットに座ったのはシカゴ最高峰のフレッド・ビロウ。フレディのヴォーカルはまだ力強さが感じられないが、ロックウッドがワッシャワッシャとビートを刻み、ハープがブロウするサウンドはシカゴ・ブルースそのものだった。
そのシカゴ・ブルースを代表するレーベルと言えばChess。マディやウルフらが同レーベルから次々とヒットを放っており、フレディも強い憧れを抱いた。事実、フレディは何度かChessのオーディションを受けたものの、ことごとく失敗。レーベル側は落選の理由を“B.B.キングの二番煎じのようだから”と説明したという。しかしこの挫折は、フレディを独自のスタイルへ導く大きな転機となった。
1957年頃になると、マジック・サムやオーティス・ラッシュといったウエスト・サイド派の若手ブルースマンらと交流を重ねる中で、ノー・クレジットながらサムのCobraセッションに参加したようである。
(後編へ続く)