毎週、1人のブルース・ギタリストに焦点を当てて深掘りしていく新連載『ブルース・ギター・ヒーローズ』。まずはアルバート・コリンズの半生を紹介していこう。
文=久保木靖 Photo by Getty Images
ジャズ、ブルース、R&Bの中からブルースを選択
凍てつくような鋭角的なトーンによる凶暴なまでのプレイ・スタイルから“ジ・アイスマン”の異名を持ち、ブルース界の“マスター・オブ・テレキャスター”として知られるのが今回の主人公、アルバート・コリンズだ。

1932年10月1日、テキサス州レオナで生まれたコリンズは、7〜9歳にかけて家族でテキサス州マルケス、そしてヒューストンへ移住。牧師だった叔父や遠縁のライトニン・ホプキンス(!)の影響で音楽に親しんでいく。
そんな中、ラップ・スタイルでギターを弾く(膝の上にギターを寝かせて弾く)従兄弟の影響でギターを始めたために、変則チューニング&フィンガー・ピッキングという特殊なスタイルを身につける。最初にマスターした曲は、ジョン・リー・フッカーの「Boogie Chillun」だったという。
1940年代から1950年代初頭にかけて、コリンズは地元テキサスのブルースはもとより、ミシシッピやシカゴのスタイルまでをも幅広く吸収。周りにはイリノイ・ジェケー(sax)のようないわゆる“ホンカー”もたくさんいるような環境だったという。
そして、ゲイトマウス・ブラウンやT-ボーン・ウォーカー、B.B.キングらの演奏に接してブルースの深みへ。カポタストを装着するプレイ・スタイルはゲイトマウスの影響だ。そんな当時を振り返り、後年に“ジャズ、ブルース、R&Bのどれを選ぶかって時にブルースをとったのさ”と語っている。
1950年、自己のバンド“リズム・ロッカーズ”を結成すると、ヒューストンのブルース・クラブで活動を開始。間もなく、シンガーのパイニー・ブラウンのバンドに参加したのを始め、セッションマンとして金を稼げるようになり、リトル・リチャードやビッグ・ママ・ソートンのバックでもプレイしたようだ。
そして1956年、ペパーミント・ハリスの伴奏で初レコーディングを経験。その中の「Houston Can’t Be Heaven」ではB.B.キングに代表されるモダン・スタイルをしっかりと吸収していることが確認できる。
“冷たさ”や“凍てつき”をテーマとしたインストを連発!
サックス奏者で音楽教師のヘンリー・ヘイズの口利きにより、1958年に地元ヒューストンのカンガルー・レーベルよりデビュー・シングル「The Freeze」/「Collins Shuffle」をリリースしたが、一般的なブルースマンと異なり、コリンズは歌を歌わずにインストで挑んだのが面白い。つまり、自分のギター・プレイに並々ならぬ自信を得ていたと想像するに難くない。
例えば、前者で使われているコードはたった1つで、淡々と伴奏が進行する中、ごくシンプルなフレーズを切り裂くようにくり返しているだけだが、その鋭いトーンが放つ凶暴性には思わずたじろいでしまうほど! “前述のセッション・ワークからの2年間で何があったんだ!?”と思わず考え込まずにはいられない。

その後はホール/ホールウェイ・レーベルと契約し、「Frosty」や「Frostbite」、「Icy Blue」、「Snow Cone」といった“冷たさ”や“凍てつき”をタイトルとしたインスト・ナンバーを次々とリリースしていく。
スロー・ブルースの「Dyin’ Flu」では例外的にボーカルを披露。これら1962〜63年の一連の録音は『The Cool Sound Of Albert Collins』(1965年)にまとめられた(その後、『Truckin’ With Albert Collins』に改題)。
この時期で見逃せないのが、ビッグ・ウォルター(vo, p)のセッションで収録されたスロー・ブルース「My Tears」でのプレイだ。オブリガートといいソロといい、シグネチャー・リックである切り裂く高音を交えながら、圧倒的な存在感を見せ、主役を完全に喰ってしまっているのだ。
1965年にカンザスシティへ移り人気を博すも、当地のレコーディング・スタジオが軒並み閉鎖されてしまうと、活動はやや停滞してしまう。
そんな折、キャンド・ヒートとのコンサートのあと、メンバーのボブ・ハイトらの尽力によりインペリアル・レーベルと契約。これに伴ってコリンズは1967年、サンフランシスコへ移住することとなった。
そのことへの感謝の意を込めて、同レーベルでの初作『Love Can Be Found Anywhere(Even In A Guitar)』のタイトルは、キャンド・ヒートの「Fried Hockey Boogie」の歌詞から取られている。
インペリアルでは1968〜1970年に計3枚のアルバムをリリース。ファンクやソウル、R&Bの要素がごちゃ混ぜになったアレンジは時代を感じさせるものの、鋭いギター・トーンの切れ味は抜群! 徐々にボーカルものの比率が高くなっていくのは、セールスを気にしてのことか、周囲から勧められたのか。
この時期はほかに、フリートウッド・マックのジェレミー・スペンサーが録音したフィルモア・ウェストでのライブ盤『Alive & Cool』(1969年)や、イーグルスとの仕事でも知られるビル・シムジクのプロデュースによる『There’s Gotta Be A Change』(1971年)などがある。
余談だが、この時期に高校の卒業パーティでコリンズが演奏するのを目の当たりにして一気にブルースへのめり込んだのがロバート・クレイだ。
痛快にもほどがある! 魅力が120%表出した晩年
フィルモアへの出演などを通して白人のロック・ファンにも認知されるようになったコリンズ。大きな転機は1978年に訪れた。ハウンド・ドッグ・テイラーを世に送り出し、ブルース専門レーベルとして軌道に乗っていたシカゴのアリゲーター・レコードに迎え入れられたのだ。
『Ice Pickin’』(1978年)を皮切りに『Frostbite』(1980年)や『Frozen Alive!』(1981年)といったソロ作品のほか、ロバート・クレイ&ジョニー・コープランドとの企画作『Showdown!』(1985年)などをリリースするにいたった。
1970年代初頭までに見せていた雑多な印象はこの時期にいたって薄れ、ブルースにフォーカスした音作りが功を奏し、コリンズの魅力が120%表出したと言えるだろう。それには、ボーカル・クオリティの向上と、シカゴの腕利きを揃えたバンド、“アイス・ブレイカーズ”のバックアップなども挙げられる。
筆者個人的には、コリンズが1960年代に夢中になっていたというオルガン奏者、ジミー・マクグリフが参加した『Cold Snap』(1986年)が最高だ。オルガンに煽られるようにして雄叫びを上げるギターに仰け反り必至! そう言えば、コリンズの曲には最初期からオルガン奏者が参加していたっけ。
1980年代から1990年代にかけて、コリンズはアメリカやカナダ、ヨーロッパ、日本などをツアー。1982年の初来日以降、日本では計4回の公演を行なっている。ちなみに、初来日公演の模様は、『Live In Japan』 (1983年) としてアルバム化された。
ゲイリー・ムーアの『Still Got The Blues』(1990年)に参加した際は、シングル・カットされた「Too Tired」のビデオ・クリップに登場。ストリートで熱いギター・バトルをくり広げるシーンが痛快だ。
そのほか、やはりゲイリー・ムーアの『After Hours』(1992年)のほか、ジョン・リー・フッカーの『Mr. Lucky』(1991年)、B.B.キングの『Blues Summit』(1993年)といったアルバムにゲスト参加し、世界的な認知を得るようになった。
過去に発表した曲の再演で構成された『Collins Mix : The Best Of Albert Collins』 (1993年)には、ゲイリー・ムーアやB.B.キングのほか、サックスのブランフォード・マルサリスら豪華ゲストが参加したが、これが生前最後のリリースとなってしまう。
癌に蝕まれていたコリンズは、1993年11月24日、ネバダ州ラスベガスにて息を引き取った。
