2023年に惜しまれつつ休刊した音楽雑誌『Player』。楽器を扱う専門誌として『ギター・マガジン』とは良きライバル関係にあっただけに、その不在はやはり寂しい。音楽業界や楽器業界を盛り上げ、読者に大きな影響を与えたその偉大な55年に敬意を表して、元編集長の田中稔氏にその歴史を綴ってもらう。隔週更新。
文=田中 稔
第39回
FAX、コピー機、そして電算写植の登場
前回は、70年代の編集部では原稿をエンピツで原稿用紙に書いていたという話を紹介したが、80年代、90年代は、編集作業や事務作業に関わるOA機器が目まぐるしく移り変わった時代だった。
特に80年代後期に編集部にワードプロセッサが導入されたのは、革命的な出来事だったと言える。それまで手書きしていた原稿はワープロでプリントされたキレイな原稿に取って代わったが、それと同時に書き間違えの修正や文字数の調整も、一部を消去したり、書き足すことで対応ができるようになり、原稿を丸々リライトする必要がなくなった。
そしてワープロが普及し始めた頃に、もう1つ画期的なツールが登場し、プレイヤー編集部にも導入された。ファクシミリである。
当時の印刷は、製版の前段階として、まず“写植”という印字作業から始まる。そのためには、手書きの原稿を製版会社や写植会社の担当に手渡ししなければならない。しかしFAXの登場により、電話回線によって原稿を先方に送ることができるようになったことは、編集作業の大きな進歩であり、新たな時代の幕開けを感じさせた。
FAXの登場で喜んだのは、編集部だけではなくライターさんも同様だった。
それまでは自宅が遠い人は別として、原稿の入稿は基本的に原稿用紙の手渡しだった。コラムや講座など連載企画を受け持っているライターさんは、月に一度、原稿を持って西新宿のプレイヤー編集部に届けるまでが仕事だった。
ライターさんにもいろいろなタイプがいて、原稿を担当者に渡したらさっさと引き上げる人。なんだかんだと小一時間、編集者と雑談をしないと帰らない人。オフィスではなく、近くの喫茶店でお茶を飲みながらゆっくり担当者と話をしたがる人。中には、ありがたいことにいつも手土産を持参する人もいて、実に様々だった。
ベテランになると、締切を数日遅れで入稿に来たのはいいが、“最後の部分がまだ……”と言いながら、空いているデスクで3~4時間原稿を書き上げて入稿する強者もいた。
編集者としては、そんな入稿のタイミングで次回の連載企画ネタや先々の特集内容の相談をすることもあり、私はできるだけライターさんが来る時間にはオフィスにいるように心がけていた。
しかし、80年代後半になるとライターさんも自宅にFAXを設置するようになり、自宅からFAXで入稿する人が急速に増えてきた。ライターさんからすれば、時間とお金と労力を使ってプレイヤーの編集部まで原稿を届けなくて済むので、FAXは一石二鳥のありがたいツールだったに違いない。
しかし、それまでのように編集部で雑談をしている中で思いついた“ひょうたんから駒”のような企画はあまり出なくなった。夏には氷菓子、冬には温かいたい焼きの手土産を持ってきてくれたあのライターさんも、自宅からFAXで原稿を送れるようになると編集部へ来る回数も減り、OA機器の進歩とともにコミュ二ケーションのあり方が変わっていった。
FAXが編集部に導入された時の面白いエピソードを1つ紹介しよう。
ある編集部員がFAXを使用したあとに、送った原稿用紙がFAX機に残っていた。私はその原稿を彼女に渡したところ、何とも怪訝な顔をしている。送り終えた原稿はそのままにしないで片付けるように注意すると、彼女から思いもよらない言葉が返ってきた。“あら、これさっきFAXで送ったんですが、送れていないのかしら……”と。
どうやら彼女は、FAXは原稿用紙そのものを相手に送ってくれるマシンだと思っていたようだ。そんなテレポーテーションのようなFAXがあったら面白いとは思うが……。
80年代には、編集部にコピー機も導入された。
現在のコピー機といえば、コピー機能のほかにカラー・プリンタ、スキャナー、FAXなど、いくつもの機能が搭載された複合機が一般的だが、80年代はどこの会社もモノクロのコピー機を使用していた。現在のコピー機と比べるとそのクオリティはかなり低く、文字のコピーはともかく、写真などは顔が真っ黒になってしまい、見られたものではない。
しかし、それでも会社にコピー機が導入されたおかげで入稿時に原稿の控えを手軽に取っておけたり、打ち合わせの資料の作成などにも便利で、すぐに編集部になくてはならない重要なツールとなった。
その後、カラー・コピー機の複合機が置かれるようになったのは、おそらく2000年代に入ってからのことだろう。毎年のように新機能を搭載した新しい複合機が登場し、クオリティが高くなるのと反比例してランニングコストが下がり、写真をコピーしてもその仕上がりの良さに驚いていた。数年前までありがたく使っていたモノクロ・コピー機は、もはや過去の産物となった……。
前回紹介したワード・プロセッサは目覚ましい発展を遂げ、編集部がワープロを基本に原稿を書くようになった80年代から、印刷・製版業界でも大きな革命が起きていた。それは“電算写植”の登場である。
それまでは、文字を印刷するにはまず原稿を“写植機”と呼ばれる大きなマシンで専門のオペレーターが1文字ずつ文字を選び出し、印画紙にその文字を露光して、台紙の上に貼らなければならなかった。
この作業は、オペレーターが数万もの文字群の中から使用する1文字を探し出すわけだが、文字盤には同じような漢字がビッシリと並んでいるので、その中から1つを選び出すことは容易ではない。しかも、写植の文字盤はハンコと同じで文字が反転しているため、それに慣れないと、知っている文字でも見落としてしまう。
一度、親しい印刷会社でその写植機を触らせてもらったことがある。数万の中から1文字を探す作業は恐ろしく難しく、5~6分やっても1つも見つからなかったのを覚えている。
この文字を選び出すという作業が電算写植では自動化されたため、オペレーターの作業時間が大幅に短縮された。
その後はワープロのデータが電算写植で生かされるようになり、さらに90年代はコンピュータで制御されたDTPの時代へと突入していく。
現在はさらに進化し、デジタル製版の時代なので、製版フィルム自体を使用しない印刷が主流になっている。印刷に関する移り変わりや進化は、印刷物を見ているだけではあまり変わっていないようにも思えるが、その過程は大きく様変わりしており、どんどん新たな技術が導入されている。
70年代は、1文字訂正するにも写植のオペレーターに写植を打ち直してもらい、製版フィルムを作り直すなど、いくつもの工程をやり直さなければならなかった。しかし、現在はその多くに工程がデータの訂正で済むという、なんともありがたい時代になった。
編集者にとって、手軽に文字や写真の訂正を行えることは確かにありがたいのだが、その分1文字1文字の重さも薄れているように感じられるのは、私だけだろうか……。



著者プロフィール
田中 稔(たなか・みのる)
1952年、東京生まれ。
1975年秋にプレイヤー・コーポレーション入社。広告営業部、編集部にて『Player』の制作を担当。以来編集長、発行人を経て1997年に代表取締役就任。以降も『Player』の制作、数々の別冊、ムック本を制作。48年間にわたり『Player』関連の仕事に深く関わった。
以後はフリーランスの編集者として活動し、2025年4月、クラプトンに魅せられた10人のE.C.マニアのクラプトン愛を綴った『NO ERIC, NO LIFE. エリックに捧げた僕らの人生.』(リットーミュージック発刊)を制作。2025年9月、電子マガジン「bhodhit magazine(バディットマガジン)」の名誉編集長に就任。
アコースティック・ギターとウクレレの演奏を趣味としている。