ジミ・ヘンドリックスがストラトキャスターを選んだ理由 ジミ・ヘンドリックスがストラトキャスターを選んだ理由

ジミ・ヘンドリックスがストラトキャスターを選んだ理由

フェンダーのストラトキャスターを世に広めた最重要人物と言えば、ずはりジミ・ヘンドリックスであると断言して差し支えないだろう。では、そんな最大の功労者とも言うべきジミが、そもそもストラトを手にしたきっかけとは一体何だったのか? それは彼がまだ本格的なキャリアをスタートさせる少し前に遡る。

文=fuzzface66 Photo by Doug McKenzie/Getty Images

NYで出会った1965年製のストラトキャスター

1966年中頃、相変わらずその日暮らしの悶々とした日々を送っていたであろう23歳のジミ(当時はジミー・ジェイムスと名乗っていた)は、ニューヨーク西48丁目にあったマニーズ・ミュージック・ショップで、ついに運命的なギターとの出会いを果たす。そう、ストラトキャスターだ。オリンピック・ホワイト・ボディにトランジション・ロゴのスモール・ヘッド、ローズウッド指板というCBS初期型スペックで、これがまさしくジミにとってのファースト・ストラトだった。

それまではフェンダーのデュオソニックやジャズマスターなどを用い、黒人コミュニティの雇われバック・ギタリストをこなしていたジミ。そこから心機一転、ジミは様々な人種が交流するニューヨークのグリニッチ・ビレッジに活動拠点を移し、“ジミー・ジェイムス&ザ・ブルー・フレイムズ”という自身のバンドを率いる。そのタイミングで、ストラトに持ち替えたというわけだ。

おかげでお役御免となったボロボロのデュオソニックは、下取りとしてマニーズに引き取られたという。

ここで、当時のエレキ・ギターの状況を少し整理しておこう。1960年代中頃といえば、ビートルズを筆頭にした“ブリティッシュ・インヴェイジョン”真っ只中の時代で、エレキ・ギターはギブソンやエピフォンなどのセミ・アコースティック・タイプに人気が集中していた。一方でフェンダーは、サーフ・ミュージックなどの影響でジャガーやジャズマスターが主力商品になっており、ストラトキャスターは一昔前のモデルとしてカタログの隅に追いやられていた。

では、バック・ギタリストからフロントマンへの転身という一大決心の相棒に、使い慣れてもいない時代遅れと化したストラトキャスターを選んだのはなぜだったのか。

近年判明した事実によると、このストラトキャスターは、すでにマニーズでレフティ用に調整が施された状態でストックされていたという。それをジミが来店した時に、“彼が持ってきたボロボロのデュオソニックと交換してあげた”と、当時マニーズの店員だったジェフ・バクスター(のちにドゥービー・ブラザーズのメンバーとして有名になる)は証言している。

ここからは筆者の推察になるが、ジミはこのストラトキャスターを見た時、ある男の存在が脳裏をかすめていたのではないかと思えてならない。そう、彼のアイドル、ボブ・ディランである。

ボブ・ディランへの憧れ

ご存知のとおり、ボブ・ディランといえば、アメリカを代表する稀代のシンガー・ソングライターであり、同時にジミが最も憧れ続けた白人アーティストでもある。特にディランの比喩表現による詩の世界観や、ルーズな歌い方などは、自分自身の音楽を模索していた当時のジミに多大な影響を与えたと言われている。

またジミのディランに対する憧れは音楽面だけに留まらず、ファッションやヘア・スタイルまで真似するほどの崇拝っぷりで、これは白人と黒人のコミュニティが今よりももっとハッキリと分かれていた当時の状況を考えると、いかにジミが黒人社会の中で異質な存在だったのかがうかがえる(ダンス目的の来客が多い黒人のクラブにディランのLPを持参し「風に吹かれて」をリクエストした結果、クラブから叩き出されたというエピソードもある)。

もっとも、ディランがまだフォーク・ギターとハーモニカで弾き語っていた頃は、ジミもそこまでのめり込んではいなかっただろう。そもそも、黒人コミュニティの中にどっぷりと浸かり、毎晩ソウル・ナンバーを掻き鳴らしていたことを考えると、その存在を知らなかった可能性すらある。

しかし、1965年の夏にディランが突如エレキ・ギターに持ち替えバンド・スタイルと化した時、ジミの中で何かが変わった。それこそ寝ても覚めてもディラン熱に浮かされるようになり、生活に困窮している中、なけなしのお金でディランのLPを買い漁ったせいで、当時の恋人と大喧嘩したこともあった(彼女はディランなど見たことも聞いたこともなかったという)。その姿はまるでアイドルに熱中するティーンエイジャーのようでもあり、迷い人が救いの神を見つけたようでもあった。

おそらくジミはディランの曲に自分自身を投影していたのだろう。中でもすり切れるほど聴いたと言われる『追憶のハイウェイ61』(1965年)に収録された「ライク・ア・ローリング・ストーン(転がる石のように)」は、バック・バンドを転々としながら、毎晩同じダンス・ナンバーを延々と弾き続ける生活に嫌気がさし、自分の本当にやりたい音楽で成功することを切望しながらも、その方向性も見出だせず、お金も帰る場所もなかったジミ自身の状況と、痛いほど重なった。そして同時に、そのボヘミアン的なエッセンスの中に、自分自身が進むべき道があると感じ始めたのかもしれない。

そんな「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌う救いの神=ディランが肩から下げていたギターが、サンバーストの“ストラトキャスター”だった。

ストラトキャスターがジミ・ヘンドリックスの成功をもたらす

ディランの一挙手一投足に憧れを抱いたジミは、「ライク・ア・ローリング・ストーン」の世界に感銘を受けると同時に、ストラトキャスターというギターにも一層強い関心を持ったのでは? そう考えるのは、いささか早計だろうか。

そしてその1年後、ディランの出発点でもあるグリニッチ・ヴィレッジに活動拠点を移し、自身のバンド=ブルー・フレイムズを従えて小さなクラブのステージにフロントマンとして立っていたジミは、冒頭のマニーズで購入したばかりのファースト・ストラトを抱え、「ライク・ア・ローリング・ストーン」を自分流のアレンジでプレイしていたのだ。

もちろん、ジミがなぜストラトキャスターを選んだのかなんて、あの世でジミ本人にインタビューでもさせてもらえない限り真相はわからない。ディランよりも前に、自身がバック・ギタリストとして共演したバディ・ガイやアイク・ターナーといったストラト使いたちへの憧れからなのかもしれないし、たまたまマニーズでレフティ用に調整されていたものを、手っ取り早く選んだだけかもしれない。

しかしジミのディランに対する心酔ぶりと当時の状況を鑑みると、グリニッチ・ビレッジで新境地を切り開く相棒として、ストラトキャスターを選択したその脳裏に、少なからずディランの残像があったのでは? と、つい思いたくなる。

そしてそんな心境で手にしたストラトキャスターが、いざ使ってみると思った以上に自分のやりたかったこと、出したかった音をもたらしてくれたのではないだろうか。ともかく彼がヨーロッパでジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとしてデビューするのは、それからわずか数ヵ月後のことであり、文字どおり、彼は大きな新境地を切り開いたのである。

“フェンダーのストラトキャスターにとてもこだわっているんだ。うまくセッティングすれば最強だし、世界一だからね”

by ジミ・ヘンドリックス
(ロサンゼルス・フリープレス誌1967年8月25日号)

では最後に、ジミの歴代ストラトキャスターを少し整理しておこう。

最初のヨーロッパ時代からアメリカ凱旋となるモンタレー・ポップ・フェスティバルまでは、ボディ・カラーはオリンピック・ホワイト、サンバースト、キャンディ・アップル・レッド、フィエスタ・レッド、ブラックなど様々だが、ヘッドとネックは概ねスモールのローズ指板で(ごく短期間ながらラージ・ヘッドと貼りメイプルそれぞれの使用はあったが)、アメリカで成功を収めてからラージ・ヘッド&ローズ指板へと切り替わる(66年~67年製と思われるトランジション・ロゴのモデルで、オリンピック・ホワイトやサンバースト、アイス・ブルー・メタリックなど)。

そして1968年10月頃に、彼の代名詞となるラージ・ヘッド&貼りメイプルを使用し始める。そのうちのオリンピック・ホワイトの1本が、俗にウッドストック・ストラトと呼ばれるモデルである。

ギター・マガジン2022年7月号
『名手が明かす、最高のストラト・サウンドの鳴らし方!』

ギター・マガジン2022年7月号の表紙特集はストラトキャスター!! 歴史的名器を追った「伝説に残る10本のストラトキャスター」では、ジミ・ヘンドリックスがウッドストック・フェスティバルでかき鳴らした1968年製の物語も掲載!

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