エディ・ヴァン・ヘイレンのギターから影響を受けていないロック・ギタリストなど、現代にはいない。直接的であれ間接的であれ、ロックをやるのであれば彼からの影響を享受しているはず。この世を去ってしまった本物のギター・ヒーローに追悼の意を表するギタマガWEBの特集では、そんなエディを永遠に語り継ぐため、彼の魂を色濃く受け継ぐギタリストたちの声を借り、その偉大さを読者の皆さんにお届けしたい。まずは、エディを“神のような存在”と語る日本の至宝=高崎晃の言葉から。
取材/文=近藤正義
アメリカ人気質の明るいジョークや洒落が効いている
初めて聴いたヴァン・ヘイレンの作品は何でしたか?
1978年にリリースされたデビュー・アルバムです。僕はレイジーとして77年にデビューしていたので、レコード会社からサンプルのカセット・テープを発売前にもらって聴いていました。
その時の印象は?
やはり衝撃的でしたね。僕たちは世代的にブリティッシュ・ハードロックで育ってきたので、アメリカン・ロックが新鮮に映ったこともあります。アメリカン・ロックはグランド・ファンク・レイルロードやモントローズなどを聴いていましたが、ヴァン・ヘイレンのサウンドは飛び抜けていました。演奏のレベルが高いだけでなく、アメリカ人気質の明るいジョークや洒落が効いていて、それがブリティッシュ系のハードロックにはなかった要素でしたね。
ヴァン・ヘイレンの登場は、やはりご自身のバンド活動にも影響しましたか?
ギターひとり、ベース、ドラム、そしてボーカルという基本的な編成のサウンドですから、僕たちのレコーディングの時にもサウンド作りの面で目標のひとつとしていました。
来日公演は観に行きましたか?
1978年の初来日公演を観ました。音のデカさとスピード感にノックアウトされましたね。あれほどのハイテンションをキープしながら、軽々と弾き続けるのもすごい。とにかく“次元が違う”という感想でした。その後は、何度か来日していましたが、僕のほうがツアーで日本にいなかったりして、なかなかか観に行く機会は得られませんでしたね。
もしかしたらアメリカで一緒にツアーを回ったかもしれない
高崎さんは実際にエディに会ったことはあるのでしょうか?
残念ながら、なかったです。音楽雑誌の取材で対談などがあってもおかしくないんですが、なぜか縁がなくて。でも、もしかしたらアメリカで一緒にツアーを回ったかもしれない、そんなチャンスは一度ありました。86年の全米ツアーで、向こうのプロモーターが最初に予定したブッキングがヴァン・ヘイレンとのジョイントだったんです。スケジュール調整の結果、最終的にはAC/DCとのツアーになりましたが……。
AC/DCとのジョイントも十分すごいですが……それは惜しかったですね。そうすると、その時ヴァン・ヘイレンが日本のラウドネスというバンドのことをビジネスの情報として知っていたかもしれませんね。
当時僕たちは本格的なアメリカ進出を考えていましたから、アメリカでアルバムもリリースしていましたし、ツアーも行なっていました。だから、もしかしたら目に入ったり聴いたりしてもらえた機会があったのかもしれませんね。その後、アメリカの音楽雑誌『ギター・ワールド』で「エディがアキラ・タカサキのプレイを褒めていた」というのを友人から聞いて、とてもうれしかったのを覚えています。
同じ80年代のアメリカ・ロック・シーンで活動していたのですから、高崎さんの場合はリスナーとしてだけではなく、同時代のプレイヤー同士として競い合った戦友のような感覚もあるのではないですか?
いいえ、どんでもない。そんなことは恐れ多くて思ったこともありません。もう、雲の上の人であり、神様のような存在でしたから。
彼なしには現在の僕は在り得ません
ヴァン・ヘイレンはアメリカでは国民的バンドと言えるほどの人気でしたよね。
どのアルバムもものすごいセールスを記録していたようですね。具体的な数字はわからないんですが……。
アルバムはデビュー・アルバムが最高19位だったのを除いて、すべてチャートの6位以内をマークしていました。サミー・ヘイガー期のアルバムは4枚すべて1位です。さらにベスト・アルバムも1位、2枚組のライブ・アルバムでさえ5位でした。デビュー・アルバムは順位こそ19位でしたが、『1984』と並んで1000万枚というモンスター・セールスを叩き出しています。
その時だけのセールスや一時的なメディアの反応だけでなく、長年累積の枚数や歴史的な重みが評価されたんでしょうね。それこそが本物なんですよ。
同時代のプレイヤーとして、やはりギター・プレイにおいても影響は受けたと思いますか?
それはもう、彼なしには現在の僕は在り得ません。そのくらい影響を受けています。僕の演奏スタイルでトレードマークのひとつになっているタッピングーーライト・ハンド、さらにボース・ハンド奏法などは彼に触発されて自分なりのスタイルに発展させたモノですからね。例えば、ラウドネスの曲でアルバム『THUNDER IN THE EAST』(85年)の「LIKE HELL」は意識せずにエディの影響がギターに出てしまった曲ですし、アルバム『HURRICANE EYES』(87年)の「SDI」ではエディっぽいフレーズをソロとしてではなく、伴奏として意識的に使った曲です。
選ぶのも難しいと思うのですが、好きなアルバムと曲を教えて下さい。
やはりデビュー・アルバムですね。曲なら「イラプション」です。もうこのサウンドは、彼にしか出せないです。
では、エディの演奏の中でも、最も好きな“一瞬”は?
「ユー・リアリー・ガット・ミー」のギター・ソロで、タッピングに入るところです。ライト・ハンドという奏法を広く世にアピールした瞬間だったんじゃないですかね。(※ページ下部に参考譜例を掲載)
ロックという音楽の歴史の中で革命を起こした人
エディ・ヴァン・ヘイレンの偉大さを言葉にして表わすなら、どのような点ですか?
まだ半世紀そこそこの、そんなに長くはないロックという音楽の歴史の中で革命を起こした人が何人かいるわけですが、ジミ・ヘンドリックスなどと並んでエディも間違いなくその中に入るひとりだと思います。
ギタリストとしての素晴らしさは?
ソロは独創的だし、バッキングにも工夫がなされていて、どこを聴いても素晴らしい。そんな不世出のロック・ギタリストだったと思います。また、テクニック的なことだけではなく、ハード面や人気という点でもエレクトリック・ギターという楽器の発展に寄与した人でもあります。
最後に、亡くなったエディーにひと言、お願いできますでしょうか。
5つほど年上という比較的に近い世代ですから、信じられません。まだまだ活動できたはずだと思うと残念です。偉大なギターの改革者だったエディには、ただもう「ありがとうございました」という感謝の言葉だけです。
COLUMN:80年代、アメリカでヴァン・ヘイレンと同じシーンに立っていた高崎晃
高崎晃は1977年にレイジーのギタリストとしてデビュー。所属事務所が強要したアイドル路線に反発し、アルバム『宇宙船地球号』でヘヴィメタル宣言を行ない1981年に解散。同年、ラウドネスを結成して1stアルバムをリリース。そのサウンドはNWOBHMやヴァン・ヘイレンの『炎の導火線』を意識したモノであった。
当初より海外進出を見据えていたラウドネスは83年より渡米してライブ活動を開始。ダニー・マクレンドンやイエスの『ロンリー・ハート』を手がけたジュリアン・メンデルゾーンをエンジニアを迎えて制作したアルバムはアメリカやヨーロッパでもリリースされた。この時期、高崎はメタリカのマネージメントから加入の誘いを受けているが、ラウドネスの活動を優先させるため断っている。
その後、アメリカのRCAレコード、アトランティック・レコードなど数社からオファーが入り、アトランティックと契約。オジー・オズボーンやY&Tの仕事で知られるマックス・ノーマン、エディ・クレイマー、ロジャー・プロバートといった錚々たるプロデューサーを迎えて制作されたアルバムは、ビルボードのアルバム総合チャートにおいて『THUNDER IN THE EAST』(85年)が74位、『LIGHTNING STRIKES』(86年)は64位と健闘した。
全米ツアーとしては、85年にモトリー・クルーのオープニング・アクト、86年にはポイズンやシンデレラをオープニング・アクトに迎えた後はAC/DCのオープニング・アクトとして、87年にはTNT、ストライパーとともにまわったツアーと、堂々たる事績を残している。
つまり、ラウドネスはヴァン・ヘイレンと同じ時代に、同じアメリカのロック・シーンで戦っていたのだ。そういう意味では、ギタリスト高崎晃は日本人ギタリストとしてエディ・ヴァン・ヘイレンに最も近いポジションでプレイしていたと言えるのではないだろうか。
ヴァン・ヘイレンとほぼ同時期にデビューした高崎晃は、リアルタイムでエディ・ヴァン・ヘイレンの影響を受けながら自身のスタイルを築き上げていった。奏法的な要素もさることながら、そのアグレッシヴなプレイからエディ・ヴァン・ヘイレンに通じるロック魂を感じるファンは多いはずだ。高崎晃、日本で最もヴァン・ヘイレンのテイストを感じさせるギタリストのひとりである。

『ギター・マガジン2021年1月号』
特集:追悼 エディ・ヴァン・ヘイレン
12月11日発売のギター・マガジン2021年1月号は、エディ・ヴァン・ヘイレンの追悼特集。全6偏の貴重な本人インタビューを掲載しています。