フレディ・キングの生涯(後編) UKブルース・ロックへの多大なる影響 フレディ・キングの生涯(後編) UKブルース・ロックへの多大なる影響

フレディ・キングの生涯(後編) UKブルース・ロックへの多大なる影響

毎週、1人のブルース・ギタリストに焦点を当てて深掘りしていく新連載『ブルース・ギター・ヒーローズ』。今回はフレディ・キングのバイオグラフィ後編をお届けしよう。

文=久保木靖 Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images

ついに才能が開花! UKブルース・ロックへの大きな影響

1959年、ソニー・トンプソン(p)との出会いがフレディの運命を大きく変える。トンプソンは1940年代から活躍するR&B界のベテランで、当時はKing系Federalレーベルの看板ミュージシャンであった。
彼の口添えでフレディはFederalとの契約に漕ぎつける(同時期にフレディがバックを務めたシル・ジョンソンの口利きという説もある)。

フレディ・キング(Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)
フレディ・キング(Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

当初は、レーベルからフレディの好みではない曲の演奏を押し付けられて窮屈な思いをしたようだ。

そんな中、もともと好きだったウェスタン・スウィングのインスト曲「Remington Ride」をジャムっていたところ、レーベル側に気に入られインスト路線を模索することに。すると「Hide Away」がR&Bチャートの5位、ポップ・チャートでも29位というヒットを記録。

これを受けて、歌入りの『Freddy King Sings』(1961年)とインスト作『Let’s Hide Away And Dance Away』(1961年)を皮切りに数枚のアルバムがリリースされていく。“友達の女房に恋してしまった。愛をとるか友情をとるか、身が引き裂かれる思いだ”と熱唱する「Have You Ever Loved A Woman」の壮絶なしゃくり上げと、気合いの入ったギターのインパクトのすごいこと!

面白いのは、先の1枚以外にも『Gives You A Bonanza Of Instrumentals』(1965年/こちらに「Remington Ride」が収録される)などのインスト作品があること。

ソニー・トンプソンは伴奏陣に加わるだけでなく楽曲制作にも力を貸し、フレディをバックアップ。フレディの才能は一気に開花した。

フレディがFederal期に築き上げたスタイルは、B.B.キングからの流れを汲むモダン路線で、古くなりかけていたシカゴ・スタイルから抜け出したもの。ロックにも通ずるパワーを秘めたこのサウンドは、海を越えてイギリスの若者たちに大きな影響を与えた。

特にジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズは歴代ギタリストであるエリック・クラプトン、ピーター・グリーン、ミック・テイラーが、それぞれ「Hide Away」、「The Stumble」、「Driving Sideways」とインスト・ナンバーを取り上げてオマージュ。

クラプトンに至っては、その後「Have You Ever Loved A Woman」を持ち歌とし、フレディの唱法を取り入れたボーカル・スタイルを築いていく。ちなみにクラプトンは、 “フレディこそが自分の初期のヒーローであり、私がギブソンLes Paulを購入した理由でもある”と何度も語っている。『Freddy King Sings』のジャケットからもわかる通り、この当時のフレディは同モデルのゴールドトップをメインに使っていた。

そして1966年、前編冒頭で述べたテレビ番組『The!!!! Beat』への出演があり、それを観たサックス奏者キング・カーティス(人材発掘にも優れた手腕を発揮していた)が、フレディの新たなページを捲る。

ソウル〜スワンプ〜ロックへと接近した晩年の凄み

フレディ・キング(Photo by David Warner Ellis/Redferns)
フレディ・キング(Photo by David Warner Ellis/Redferns)

1968年、キング・カーティスの紹介でAtlantic傘下のCotillionと契約すると、フレディは『Freddie King Is A Blues Master』(1969年)と『My Feeling For Blues』(1970年)をリリース。
バックはカーティス一派が務め、なんと一部にはダニー・ハサウェイもアレンジャーとして加わっている。当然ながらアーバンな香りの漂う、ソウル・テイストが加味されたサウンドとなった。

1968年に敢行された初の海外ツアーは当初の1ヶ月から3ヶ月に延長され、フレディは特に“イギリスでの人気に驚いた”という。

1969年にはレッド・ツェッペリンも出演するテキサス・ポップ・フェスティバルに登場。すると、ツェッペリンの面々は、フレディの演奏に開いた口が塞がらない状態だったとか。

その後、レオン・ラッセルのShelterレーベルから『Getting Ready…』(1971年)などをリリース。
スワンプ・ロックなテイストを漂わせつつも、シカゴ・クラッシックがあるほか、第2期ジェフ・ベック・グループが取り上げた「Going Down」のような大迫力のブルース・ロックも登場した。

フレディはこの時期、シカゴのブルースマン、ジミー・ロジャースのカムバックをサポートしている。ロジャースの『Gold Tailed Bird』(1973年)を一部プロデュースし、ギターもプレイした。

こうしてフレディは、同世代のトップ・ブルースマンの多くがそうであったように、主に白人の若い聴衆のために、当時の大物ロック・アーティストたちと肩を並べて演奏するようになった。
エリック・クラプトンとは親友となり、そんな縁からフレディはクラプトンがレコーディングしていたレーベル、RSOと契約。『Burglar』(1974年)と『Larger Than Life』(1975年)を録音する(前者にはクラプトンも参加)。

この頃になると、曲によってはファンキーさが加味されるようになる。アクセント的に使われるホーン・セクションなどから、もしかしたら、スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどが視野にあったのかもしれない。

ただし、ギター・プレイはアドリブ・ソロを売りにする同時代のロック・ギタリストそのもの──いや、それにパワーを増量した、はち切れんばかり勢いで度肝を抜かれる。ブルースの影響を受けたロック・ギタリストからの“逆輸入”現象と言っていいだろう。

さらなる飛躍を期待されていたが……年間300日にも及ぶ強行スケジュールのツアーを組むほど精力的に活動しており、それが仇となったのか、フレディは健康を害し、1976年12月28日、出血性潰瘍と心不全と膵炎の合併症により、ダラスで死去。42歳という若さだった。