【会員限定】制御不能なプレイでブルース・シーンを震撼させてきた、バディ・ガイの半生 【会員限定】制御不能なプレイでブルース・シーンを震撼させてきた、バディ・ガイの半生

【会員限定】制御不能なプレイでブルース・シーンを震撼させてきた、バディ・ガイの半生

毎週、1人のブルース・ギタリストに焦点を当てて深掘りしていく新連載『ブルース・ギター・ヒーローズ』。今回は伝説的ブルース・マン、バディ・ガイの半生をご紹介。

文=久保木靖 Photo by Getty Images

ジョン・リー・フッカーの「Boogie Chillun」を
ひたすら弾いた少年時代

自身のセッションにおいて制御不能な直情型プレイで畳みかけたと思えば、ジュニア・ウェルズ(harp)とのコンビでは蠢く虫のごとく陰湿なフレーズをチロチロと這わせる。“心の叫び”や“ドロドロとした鬱積”といったブルース感情をギターでこれでもかと表現する男、それがバディ・ガイだ。

Blues musician Buddy Guy performs circa 1960.  (Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)
Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

1936年7月30日、5人兄弟の長男として生まれる。シカゴ・ブルースのイメージが強いが、出身地はルイジアナ州レッツワースで、アイドルであるB.B.キング同様、綿花を摘む小作農の息子であった。
音楽が好きだったバディは、7歳の時に網戸のワイヤーをはずし、母親のヘアピンで木片に留めた2弦のディッドレイ・ボウを自作。結果、家に蚊の侵入を許すことになり大目玉をくらったとか。

家に電気が通ったのは1940年代後半、バディが12歳か13歳の時。電気は蓄音機をもたらした。バディが初めて聴いたレコードは、ジョン・リー・フッカーの「Boogie Chillun」だったという。


ちょうどその頃、バディが弾くディッドレイ・ボウの雑音にいい加減耐えられず(笑)、父親がほかの小作農からハーモニー製のアコースティック・ギターを買って与えた。すると、その小作農がバディに「Boogie Chillun」の弾き方を教えてくれたという。バディは“指から血が出るほど弾き続け”、得意気に周囲に聴かせまわったのだった。

その後、ジュークボックスから流れるマディ・ウォーターズに魅せられ、衣装もステージ・アクションも派手なギター・スリムに夢中になった。のちにバディは、“B.B.キングの音楽性とスリムのアクションを混ぜ合わせようと思った”と語っている。

1950年代初頭、10代後半の頃にバトンルージュへ移ると、ビールの瓶詰め工場やガソリン・スタンドで働きながら、少しずつ音楽活動を本格化させていく(ちなみに、生活苦から高校は退学)。
バディは当時、ハーモニー製アコースティック・ギターにピックアップを装着してプレイしていたが、伝説的ブルースマンの“ビッグ・パパ”・ジョン・ティリーが、彼のバンドでギターを弾く代わりにギブソンのレス・ポールを買い与えてくれたという(太っ腹!)。

1957年5月30日、バディは憧れのチェス・レーベルと契約すべく、ラジオ局WXOKにてデモ音源を録音。その2曲は、ジョン・リー・フッカーを想起させるブギー調と、B.B.キングを意識したスローなモダン・スタイルであった。

しかし、この音源はどういうわけかチェスには届かず、バディは直接シカゴに乗り込むことを決意。シカゴ行きの列車に乗った1957年9月25日、バディはこの日を“二度目の誕生日”と呼んでいる。

シカゴでの成功へと導いた
“制御不能な”プレイ・スタイル

シカゴ・ブルース最盛期とも言える時期に当地にたどり着いたバディ。彼の目に映ったのは、自分と同じ南部出身のブルースマンがしのぎを削っている姿であった。

初年のある時、食うに困っていたバディを知人が708クラブへ連れて行くが、そこで演奏していたのがオーティス・ラッシュ。その知人の口利きでバディはステージへ上がり、入魂の演奏を披露する。これでバディはブルース・シーンに迎えられ、間もなく、マディ・ウォーターズ一門に迎え入れられたという。

当時はマジック・サムやオーティス・ラッシュといったシカゴ・ウエスト・サイド派の若手ギタリストが台頭しており、バディもその一員として切磋琢磨。そして、シカゴ・ブルースの仕掛け人、ウィリー・ディクソンの口利きで、コブラ・レコードで1958年に初録音がセッティングされた。

その「Sit And Cry」と「Try To Quit You Baby」では、ギターはオーティス・ラッシュが担当(次のセッションでのギターはアイク・ターナー)。B.B.キングやフレディ・キングもそうだが、初レコーディングでギターを弾かせてもらえないケースがあるのは、ボーカリストとしての契約であることに加え、手堅いバック・ミュージシャンで手際よく進めたい、という会社側の思惑であろう。

1959年にコブラが倒産すると、1960年に晴れてチェスと契約。最初のセッションで生まれた「First Time I Met The Blues」でヒステリックなボーカルと異様なテンションのギターという独自のスタイルをぶち上あげると、その後もスロー・ブルース「Stone Crazy」や、アップ・テンポ「Let Me Love You Baby」などの重要曲を放つ。この頃から愛器はフェンダーのストラトキャスターとなった。

新世代らしくソウルやファンク、時にジャズを取り入れながらプレイを重ねたが、普段のステージのように存分にギターを弾かせてもらえず、結局リリースされたレコードもシングル10枚のみ(アルバム『Left My Blues In San Francisco』はヴァンガードへ移籍後の1968年発売)。

ただしチェスでは、その腕を買われて、マディ・ウォーターズの『Folk Singer』(1964年)を始め、サニー・ボーイ・ウィリアムソン、ハウリン・ウルフ、ココ・テイラーなどのセッションにも参加している。

盟友ジュニア・ウェルズとの活動と
後年の豪華アルバム

1967年にヴァンガードへ移籍すると、「Mary Had A Little Lamb」を含む『A Man And The Blues』(1968年)など3枚のアルバムを発表し、白人聴衆、ロック・ファンの前でも演奏するようになり、その名が広く知られるようになった。

時に派手なステージ・アクションが“ジミ・ヘンドリックスの真似か?”と聞かれることがあったようだが、実はその逆でジミがバディに影響を受けていた。バディ本人はそのことを自分の息子から聞き、“父さんって凄い人なんだ!”と言われて面目躍如だったらしい。

一方、忘れてはならないのがジュニア・ウェルズとのコンビ活動だ。チェス時代から付き合いがあった2人だが、ウェルズのおどろおどろしいボーカルとバディの陰湿なフレーズがものの見事に融合し、ブルース界屈指の名コンビとなった。『Hoodoo Man Blues』(1965年)の「Ships On The Ocean」や、『Chicago / The Blues / Today! Vol.1』(1966年)に収録された「Vietcong Blues」の禍々しさと言ったら!

1970〜1980年代はジュニア・ウェルズとの活動が増え、ソロ作は少ない。低迷する中、様々なレーベルを渡り歩いたが、特筆すべきはフランスのイザベルの『Stone Crazy!』(1979年)で、ここでのギターの暴走は“クレイジー!”としか言いようがなく、おそらく現存するバディの音源の中では“最恐”だ。

そして1991年、シルヴァートーンと契約し『Damn Right, I’ve Got The Blues』で完全復活。マーク・ノップラーやジェフ・ベック、エリック・クラプトンらが華を添えたことからロック・ファンの注目も集め、バディの人気は世界規模に。同作はグラミーの最優秀コンテンポラリー・ブルース・アルバム賞を受賞している。

その後もバディのアルバムには、カルロス・サンタナやキース・リチャーズ、デレク・トラックス、ビリー・ギボンズ、ヴァン・モリソン、トレイシー・チャップマン、ミック・ジャガーといった大スターがゲスト参加しており、リリースのたびに大きな話題となってきた。

現時点での最新作は2022年、御年86歳でリリースした『The Blues Don’t Lie』だ。エルヴィス・コステロやジェームス・テイラー、ザ・ステイプル・シンガーズのメンバーだったメイヴィス・ステイプルズらが参加している。


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